日本のあるべき教育の姿とは? 4|教育問題

前回は「日本のあるべき教育の姿とは? 3」の話でした。

第二次世界大戦敗戦後からこれまで、戦時中のことに蓋をし続けてきた日本。

世界大戦中の事柄を、日本政府が主導して「曖昧に」してきました。

自分たちが曖昧にすることは、他国にとっては「良い餌」となってしまいます。

こちらが曖昧にしている以上、相手の国にとっては「なんとでも主張できる」ことになります。

自国の歴史を曖昧にすることは、相手の国に無用な大義名分を与えてしまうことにもなると思います。

この時は、原爆投下前後の当時の鈴木貫太郎元首相の「黙殺」を取り上げました。

「曖昧で問題ない」は、「基本的には日本人同士だけ」であると考えるのが良いのではないでしょうか。

仮に、米国滞在歴が長い日本人の方であって、「米国のことはかなり理解している」方であっても、米国民の考え方の基本はなかなかわからないのが実情でしょう。

それは「民族性の違い」に起因することで、個人の努力で克服することが出来ない領域であると考えます。

また、その「民族性の違い」は、大いに尊重すべきものであると考えます。

しかし、外国との交渉においては、それを念頭においた上で、きちんと自己主張することが基本になります。

相手に「どのように理解されるのか?」を考え、配慮した言葉を選ぶことは最重要なことの一つだと思います。

教育において英語も大事ですが、まずは「日本人としての骨格をきちんと持つこと」が最優先です。

21世紀に入って20年以上経過し、昭和から平成を過ぎて、令和という新しい時代になった日本。

教育は国の根幹ですから、大いに「新たな教育と国づくり」の議論をすべきと思います。

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