前回は「外国の方に対しては「分かりやすい言葉」を届けよう 4」の話でした。
外交も「駆け引き」「交渉」です。
仮に「全く受け入れられない」が本心であっても、「検討する」などの回答をすべきであったでしょう。

特に陸軍が「徹底抗戦を主張」していましたが、誰の目にも日本が敗北するのは分かっていたのです。

ポツダム宣言受諾においては、「天皇陛下の戦勝国の扱い方」は大きな問題でした。
降伏前に、指導者であるヒトラーが自殺してしまったドイツとは大きく異なる状況ではありました。

様々な要素が沢山あり、日本国内の状況としては、「『黙殺』と言わざるを得なかった」のかもしれません。
しかし、外交は「相手あってのこと」であるのは当然です。

自分が「黙殺」と言った時に、相手方に「どう伝わり、どう考えるのか?」を、当時の鈴木首相は考えていなかったのでしょう。
考える余裕すらなかったのかもしれません。

「黙殺」の結果、米国・英国に攻撃の「大義名分」、旧ソ連に対しては不可侵条約の一方的破棄の「大義名分」を与えてしまいます。
そして、これが日本にとって、取り返しのつかない致命的大失態へとつながります。
この「黙殺」問題に関しては諸説あります。
当時の状況や歴史を考えて「相手国に誤解を与え、大義名分を与えてしまった」と考えます。

日本人同士であれば、この「黙殺」は「以心伝心」で状況が伝わり、こちらの「回答しようがない、やむを得ない状況」を理解してくれたかもしれません。
そしてその理解を元に相手も状況を推察し、対応してくれたかも知れません。

Stalinソ連書記長は「不可侵条約破棄のいい大義名分だ」とほくそ笑んだことでしょう。
欧米はそんな日本の「以心伝心」的な心を推し量るような文化はないですし、政府の発表は正式な回答として「文面」で相手に伝わるのです。
「遺憾」の話にしても今回の「黙殺」にしても、言葉は「正しい意味が相手に届いてこそ意味がある」と改めて思います。
まして、言葉によって「誤解を届けてしまう」こともあることは、最も避けなければならないことではないでしょうか。
「黙殺」によって導かれた歴史は変えようがありません。

外交においては、海外に対して「黙殺」や「遺憾」などという日本語的な「曖昧な言葉」は使用しないべきと考えます。
自国民が分かりやすく、当然相手国の首脳を含む方々にも分かりやすい言葉であるべきと考えます。
それが日本が海外により積極的に発信できるようになる、「はじめの一歩」でしょう。