リメンバー・パール・ハーバー 21〜独と結ぶ日本〜|第二次世界大戦

前回は「リメンバー・パール・ハーバー 20〜独英と日本海軍〜」の話でした。

後世において、第二次世界大戦の時の陸海軍に対して「海軍善玉、陸軍悪玉」という印象が強い日本。

それは、陸軍のボスであった東條英機総理大臣の時に真珠湾奇襲攻撃を行ったことが大きな理由でしょう。

東條英機 首相兼陸軍大臣(Wikipedia)

親ドイツを貫き、ドイツとの軍事同盟を強力に推進した陸軍。

それは一面、明治新政府が「プロイセン(ドイツ)に陸軍の範を求めた」影響が強いです。

「範を求めた」ということは、陸軍にとっては「プロイセン(ドイツ)は先生」のような感じです。

戦艦三笠に座乗する東郷平八郎 連合艦隊司令長官(Wikipedia)

日本海海戦での快勝の印象が非常に強い日露戦争。

この時、陸軍でロシアと死闘を戦い抜いた立役者の一人である児玉源太郎 満州軍総参謀長。

児玉源太郎 満州軍総参謀長(Wikipedia)

陸軍大臣などの政府要職を務めた児玉は、ドイツから陸軍へ教官の派遣を強力に推進しました。

Jacob Clemens Meckel独陸軍少将(Wikipedia)

そして、1885年にメッケル少将が陸軍大学校に教官として来日して、陸軍軍人を教えました。

「欧米の最先端の学問・技術を身につける」ことを目標にした明治政府は、多数の外国人を招致しました。

そして、外国人に多額の給与を支払って「先生」となってもらったのです。

それは、学問や工場に限らず、軍隊までも「外国に教えてもらう」形で急速に整備した明治以降の歴史。

もともと「海軍は陸軍の一部」という位置づけであったこともあり、日本陸海軍では陸軍の方が立場は上です。

左上から時計回りに伏見宮博恭王 軍令部総長、米内光政 海軍大臣、井上成美 海軍軍務局長、山本五十六 海軍次官(Wikipedia)

この中、日本海軍は海軍省が「反ドイツ」で一枚岩になっていても、軍令部総長が親独で割れました。

私は
ドイツが好きなのだ。

ドイツ留学経験もあり、皇族である伏見宮博恭王 軍令部総長の力は強力です。

これで、海軍の「反独」の勢力は半減し、陸軍の「親独」に押されてしまいました。

ドイツと軍事同盟を
結ぶと、米国を敵に回す・・・

しかし、
どうにもならない・・・

「海軍の顔」となり、すでに国内外で名声が非常に高かった山本五十六 海軍次官。

その山本次官が

ドイツと手を
結ぶのは絶対反対だ!

という姿勢を貫いても、すでに日本陸海軍の過半を大きく超える勢力が「親独」で固まっていました。

そして、1940年9月27日にイタリアも含めた日独伊三国軍事同盟締結に至ります。

1941年ヨーロッパ支配圏(歴史人2021年8月号 ABCアーク)

この1940年の時点で、すでに「米国との戦争は決まっていたようなもの」とも言えます。

日本は今も当時も、何事においても「時間がかかる」体質は同じでした。

日独伊三国軍事同盟締結から約1年3ヶ月経過した後になって、ようやく対米英戦を開始しました。

それが、真珠湾奇襲攻撃だったのです。

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