前回は「リメンバー・パール・ハーバー 19〜日本国内の派閥〜」の話でした。

日独伊三国軍事同盟に対して、猛烈に反対していた海軍の中でも急先鋒の米内光政 海軍大臣。
海兵29期卒業の米内は、山本の3つ先輩です。

ドイツとの軍事同盟など、
もってのほか!



一体、陸軍は
何を考えているんだ?



我が大日本帝国を
滅亡させる気か!!





ヒトラーと手を結べば、
欧米全体を敵に回す!
猛烈な剣幕で、ドイツとの同盟に反対します。
当時、海軍大臣で「海軍の有力者の一人」だった米内光政。
写真からは、おっとりした性格で、非常に真面目そうです。
海軍兵学校では、あまり成績が良くなく「グズ政」とあだ名されるに至った米内。
持ち前の根気でエリート街道の海軍大学校に進み、一定のエリート街道を走るも、途中は「予備役寸前」の役職となります。
しかし、ここから運もあってか、連合艦隊司令長官を務め、その後海軍大臣にまで上り詰めます。





米内さん!
山本五十六 海軍次官と米内海軍大臣は、考え方が似ていたこともあり、非常に良好な関係でした。


「ドイツとの同盟反対派」には、もう一人有力な海軍軍人がいました。
井上成美 軍務局長です。
当時、陸軍・海軍ともに極めて強い権限を持ち、「次官同等」とも言われる強権を持った軍務局長。
井上は海兵37期卒業で、非常に優秀な成績でした。
特に、英語が堪能で、在欧州中にはフランス語の習得にも励んだ井上は、非常に親欧米でした。



ドイツと軍事同盟など、
論外だ!



井上くん!
ここに、山本次官は先輩・後輩と組んで、懸命にドイツとの同盟に反対します。
名前 | 海兵卒業期 | 役職 | |
米内光政 | 29 | 海軍大臣 | |
山本五十六 | 32 | 海軍次官 | |
井上成美 | 37 | 海軍軍務局長 |
「海軍左派三羽烏」と呼ばれて、この三名がガッチリタッグを組んで、日独伊三国軍事同盟に反対します。
陸海軍通じて、現代の日本人にとって最も高名とも言える、山本五十六がおり、海外でも山本の名声は非常に高いです。
それだけに、この三名の反対は「非常に協力」とも言えますが、特徴的なのは「全員海軍省関係者」です。
つまり、海軍の軍政・軍令の大きな二大分野のうち、片方でしかありません。
政府内にいて、首相と直接議論をして、外交にも一定の影響を持つ海軍大臣。
しかし、海軍には、連合艦隊司令長官の上司である権力者が、もう一人います。
軍令部総長です。
当時、海軍大臣と軍令部総長の二人で、海軍最高幹部の権限を分けていました。
役職 | 権限 |
海軍大臣 | 軍政(人事・兵站など) |
軍令部総長 | 軍令(作戦指揮) |
上記のように分かれており、海軍大臣には、人事権な海軍の総合的権限がありました。
一方で軍令部総長には、各艦隊などの作戦指揮権があり、軍事に関しては軍令部総長の力は非常に強力でした。


そして、当時の軍令部総長は、伏見宮博恭王でした。
名前の通り、皇族出身の方で、最後の将軍・徳川慶喜の娘と結婚しています。


ビスマルクによって勃興したドイツ海軍士官学校に留学し、徳川家と結婚したサラブレッドの伏見宮博恭王。
日本の海軍士官学校は中退ですが、「海兵18期卒業同等」の扱いを受けました。
実は、かつて日本軍は「陸軍主体」であり、海軍の立場は弱かったのです。
陸軍の参謀総長と同じ立場の海軍側の役職は、かつて「軍令部長」と呼ばれていました。
つまり、「総長より下の部長」という意味合いがありました。
1932年に海軍軍令部長に就任した伏見宮博恭王。



島国日本で、海軍の立場が
陸軍より弱くてどうする!!



海軍の軍令を陸軍の軍令と
完全に同格にすべきだ!
そして、「海軍軍令部長」から「軍令部総長」へと呼称を変更し、軍令への権限を強化しました。
ドイツに好んで留学した伏見宮博恭王。
もちろん



ドイツと軍事同盟を
結ぶのが妥当だ。
という考えでした。
ここで、日本海軍と陸軍のみならず、日本海軍内でも「新独・新英」で大きく意見が割れてしまったのです。