親ドイツの陸軍に対抗する海軍〜日本軍部内の軋轢・海軍左派三羽烏・米内・山本・井上の奮闘・陸軍への反撃・伏見宮博恭王の動き・軍令部の権限強化を推進した「親ドイツ派」〜|リメンバー・パール・ハーバー20・真珠湾奇襲攻撃

前回は「猛烈な勢いのドイツ軍と押される大英帝国〜絶好調のドイツと日本陸軍・「バスに乗り遅れるな」の声・陸軍の模範ドイツ・明治維新における列強の動き〜」の話でした。

目次

親ドイツの陸軍に対抗する海軍:日本軍部内の軋轢

米内光政 海軍大臣(Wikipedia)

日独伊三国軍事同盟に対して、猛烈に反対していた海軍の中でも急先鋒の米内光政 海軍大臣。

海兵29期卒業の米内は、山本の3つ先輩です。

東條英機 陸相(国立国会図書館)

ドイツと同盟を結ぶのが、
我が国としては最も自然だ!

強行に「ドイツとの軍事同盟を推進」する陸軍に対して、米内は

ドイツとの軍事同盟など、
もってのほか!

一体、陸軍は
何を考えているんだ?

我が大日本帝国を
滅亡させる気か!!

陸軍は
亡国の馬鹿者たちだ!

Adolf Hitler独総統(Wikipedia)

ヒトラーは
危険すぎる・・・

ヒトラーと手を結べば、
欧米全体を敵に回す!

米内は猛烈な剣幕で、ドイツとの同盟に反対します。

元々険悪な中であった日本陸軍と日本海軍。

「ドイツとの軍事同盟」をめぐって、日本の軍部内では猛烈な軋轢が起きていました。

当時、海軍大臣で「海軍の有力者の一人」だった米内光政。

写真からは、おっとりした性格で、非常に真面目そうです。

海軍兵学校では、あまり成績が良くなく「グズ政」とあだ名されるに至った米内。

持ち前の根気でエリート街道の海軍大学校に進み、一定のエリート街道を走ります。

ところが、途中は「予備役寸前」の役職となります。

もうすぐ、
予備役か・・・

ところが、ここから運もあってか、連合艦隊司令長官を務め、その後海軍大臣にまで上り詰めます。

海軍左派三羽烏・米内・山本・井上の奮闘:陸軍への反撃

山本五十六 海軍次官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本戦記シリーズNo.61新人物往来社)

米内さん!

山本五十六 海軍次官と米内海軍大臣は、考え方が似ていたこともあり、非常に良好な関係でした。

井上成美 海軍軍務局長(Wikipedia)

「ドイツとの同盟反対派」には、もう一人有力な海軍軍人がいました。

井上成美 軍務局長です。

当時、陸軍・海軍ともに極めて強い権限を持ち、「次官同等」とも言われる強権を持った軍務局長。

井上は海兵37期卒業で、非常に優秀な成績でした。

特に、英語が堪能で、在欧州中にはフランス語の習得にも励んだ井上は、非常に親欧米でした。

ドイツと軍事同盟など、
論外だ!

井上くん!

ここに、山本次官は先輩・後輩と組んで、懸命にドイツとの同盟に反対します。

名前海兵卒業期役職
米内光政29海軍大臣
山本五十六32海軍次官
井上成美37海軍軍務局長
海軍:日独伊三国同盟反対派

「海軍左派三羽烏」と呼ばれて、この三名がガッチリタッグを組んで、日独伊三国軍事同盟に反対します。

陸海軍通じて、現代の日本人にとって最も高名とも言える、山本五十六がおり、海外でも山本の名声は非常に高いです。

それだけに、この三名の反対は「非常に協力」とも言えますが、特徴的なのは「全員海軍省関係者」です。

つまり、海軍の軍政・軍令の大きな二大分野のうち、片方でしかありません。

政府内にいて、首相と直接議論をして、外交にも一定の影響を持つ海軍大臣。

そして、海軍には、連合艦隊司令長官の上司である権力者が、もう一人います。

軍令部総長です。

当時、海軍大臣と軍令部総長の二人で、海軍最高幹部の権限を分けていました。

役職権限
海軍大臣軍政(人事・兵站など)
軍令部総長軍令(作戦指揮)
日本海軍最高幹部・権限

上記のように分かれており、海軍大臣には、人事権な海軍の総合的権限がありました。

一方で軍令部総長には、各艦隊などの作戦指揮権があり、軍事に関しては軍令部総長の力は非常に強力でした。

伏見宮博恭王の動き:軍令部の権限強化を推進した「親ドイツ派」

軍令部総長 伏見宮博恭王(Wikipedia)

そして、当時の軍令部総長は、伏見宮博恭王でした。

名前の通り、皇族出身の方で、最後の将軍・徳川慶喜の娘と結婚しています。

第十五代将軍 徳川慶喜(Wikipedia)

ビスマルクによって勃興したドイツ海軍士官学校に留学し、徳川家と結婚したサラブレッドの伏見宮博恭王。

日本の海軍士官学校は中退ですが、「海兵18期卒業同等」の扱いを受けました。

かつて日本軍は「陸軍主体」であり、海軍の立場は弱かったのです。

陸軍の参謀総長と同じ立場の海軍側の役職は、かつて「軍令部長」と呼ばれていました。

つまり、「参謀総長より下の軍令部長」という意味合いがありました。

1932年に海軍軍令部長に就任した伏見宮博恭王。

島国日本で、海軍の立場が
陸軍より弱くてどうする!!

海軍の軍令を陸軍の軍令と
完全に同格にすべきだ!

そして、「海軍軍令部長」から「軍令部総長」へと呼称を変更し、軍令への権限を強化しました。

ドイツに好んで留学した伏見宮博恭王。

もちろん、「親ドイツ派」であり、

ドイツと軍事同盟を
結ぶのが妥当だ。

という考えでした。

ここで、日本海軍と陸軍のみならず、日本海軍内でも「新独・新英」で大きく意見が割れてしまったのです。

新地球紀行

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