前回は「日英の友好 16〜薩摩の奮戦〜」の話でした。

1863年、日本の一共和国に過ぎない薩摩藩に対して、7隻もの艦隊を差し向けて戦争を仕掛けた英国(大英帝国)。
薩摩側は鹿児島城下町を大きく焼かれ、多数の砲台が潰されました。

本気で戦争をするつもりで、錦江湾の奥深くまで攻め込んできた英国艦隊。

前藩主・島津斉彬が大きく推進した「西洋学問・技術の本拠地」である尚古集成館も大損害を受けました。

尚古集成館も
大きな被害を受けました!

うむう・・・
前藩主・斉彬と異母兄弟の久光。
「お由羅騒動」もあり、双方の派閥が熾烈な争いをしましたが、久光は斉彬の技術革新には大きな理解を持っていました。



かなりの
被害を受けたな・・・





Satsumaの領土には
大損害を与えたようだが・・・



人的被害がこちらの
方が多いのは、全く予想外だ・・・



しかし、このまま
引き下がれん!





これ以上、
深追いしない方が良いかと考えます。



まずは、状況を本国へ
報告します。



そうしてくれ。


当時は、まだ電信が出始めた頃で、世界最先端の大英帝国といえど、アジアから英国への連絡には時間がかかりました。
薩英戦争の結果報告を受ける、ラッセル英外相。
JapanのSatsumaとの
戦争の結果報告です。



ほう。
奴らをどのように痛めつけたのだ?
英国側が「大損害を受けた」など夢にも思わないラッセル外相は、楽観的に聞きます。
それが・・・
Satsumaの領土には、
大損害を与えましたが・・・
我が将兵は、
ジョンスリング艦長以下13名戦死!



なんだと?!
全く予想外の結果です。



そんなことが
あるのか?



間違いではないのか?
よく調べろ!
間違いではないことを、
確認しました・・・
力なく答えるラッセル外相の部下。



・・・・・



これは、英国議会としても
問題になってしまう・・・
案の定、あまりに大きな損害に、英国議会は紛糾します。
やり過ぎたから、
ジョンスリング艦長まで戦死したのだ!
Tokugawaから賠償金を取ったのだから、
Satsumaの本拠地を攻撃したのは、やり過ぎだ!
英国内で薩摩攻撃が問題となり、



なんとか、Tokugawa、Satsumaとの
交渉をまとめろ!
前線のニール代理公使に厳命します。


一度は英国に船ごと拿捕され、捕虜となっていた薩摩藩士・五代友厚。
後に大阪府権判事、初代大阪税関長、そして初代大阪商(法)工会議所会頭となり、大阪経済の立役者となります。



大英帝国は
世界最強です。



経済力は清国(中国)の方が上ですが、
科学技術・文明は、はるかに進んでいます。



英国と協調体制を
取ってゆくのが良いかと。



ふむう・・・



しかし、賠償金と犯人逮捕の条件は、
呑めんぞ!





久光様。
まずは幕府とも相談しながら、英国と協議します。



うむ。


ここで、薩摩藩校 造士館で優秀だった重野安繹が登場します。
1927年生まれで、1928年生まれの西郷隆盛とほぼ同い年(同じ学年)です。
この直前、同僚の不祥事に連座する形で奄美大島に流されていました。


配流先の奄美大島で西郷隆盛に出会います。
後に学問の道に進み、「日本人初の文学博士」となった重野安繹。



英国と交渉して
頂きたい。



分りました。
西郷隆盛が「島流しになった」のは有名な事実です。
西郷の場合は、「二度も島流しになった」ところが異例の点ですが、やはり「島流しになった」重野。
苛烈な藩であり、南洋に面しているため様々な島を管理していました。
琉球藩も島津藩の支配下にあり、当時琉球は「清国と日本(薩摩)の両属」体制にありました。
現代でも島国で、海に面した場所が多い日本。
海岸線の長さでは、世界6位です。


「海に面していた国が多い」とは言え、まだ海洋技術が未発達で、大きな船の建造が幕府に禁じられていた時代。
「目の前に大きな太平洋が広がる」だけでは、なかなか「海の先」をイメージ出来ません。
対して、薩摩は「海の先に、多数の島」という自国領土があります。
そのため、他の藩よりも「島流しにする」ことが比較的多く行われていたのでしょう。
「島流し」は重罪ですが、薩摩藩としては「自国領である島々を管理する」必要があります。
そして、その島々は「単なる領土」ではなく、薩摩藩が長年行っていた「外国との密貿易」の大事な拠点でした。
江戸時代前期には、山田長政がタイで大きな日本人街を作りました。


オランダ・清国(中国)・朝鮮以外の国とは「国交を絶っていた」と言われ、鎖国をしていた日本。
鎖国政策により、海外との交流は大幅に制限されたものの、いくつか抜け穴があったのでしょう。
そして、特に薩摩をはじめとする九州諸藩は、海外と接点を持っていたと考えられます。
清国・琉球、あるいはタイなどの東南アジアとも交流・交易していたのでしょう。
島流しにされた、西郷隆盛や重野安繹によって、薩摩は飛躍してゆきます。