前回は「日英の友好 10〜英国の首相と徳川将軍〜」の話でした。

幕末日本で最も重要な役割を果たす藩である薩摩藩。
藩主ではないものの、国父として実権を握っていた島津久光。

幕末の英雄の中でも、非常に大きな存在であったにも関わらず、悲壮な最後を遂げた西郷隆盛。
西郷は、幕末で最も人気が高い人物です。
その西郷と生涯揉めた島津久光。
「揉めた」という生易しい状況ではなく、実態としては「憎み合っていた」に近い間柄です。

西郷は、大嫌いだ!
西郷を島流しにして「消した」後、久光は勇んで幕府に武力で圧力をかけます。
そして、様々な「幕政改革=政治改革」を呑ませた島津久光は、意気揚々と薩摩へ帰還します。
その帰り道に勃発したのが生麦事件でした。


これは、日英双方にとって「タイミングが悪かった」事件でした。
なんと、散歩中の英国人男性3名、女性1名に、薩摩藩士が斬りかかったのです。
そして、英国人1名がなくなり、2名が重症、女性1人軽症を追います。





What!?
Japan大好きなアーネスト・サトウもびっくり仰天します。



Japanは、こんなに
無道な国だったのか?
散歩している外国人に「一方的に日本刀で斬り掛かった侍たち」という存在。
民主主義の本場の大英帝国では「考えられない事態」です。
しかし、薩摩藩側からすれば、



大名行列に対して、
下馬しないお前たちが悪い!
だったのです。
これが、この「意気揚々と薩摩に帰る」途中でなければ、ここまでの事態にはならなかったかもしれません。



薩摩の力、俺の力を
見せつけた!
様々な交渉の上で、大いに自分の力を顕示した久光。
能力が劣り、難局を乗り切れない将軍家茂を補佐する役として、


後の将軍 一橋慶喜を将軍後見職として、力を持たせます。
他には、盟友である松平春嶽を政事総裁職として、「ほぼ久光の思う通り」に改革した久光。



俺は、兄斉彬より
偉いのだ!
「類まれな名君」と言われ、急死した全藩主であり、兄の島津斉彬と比べ続けられた久光。


その久光にとっては、「初めての江戸」であり「記念すべき大事業を成し遂げた」直後だったのです。



俺は藩主ではないが・・・



この優れた頭脳と力を持って、
我が国の中心となった!
無位無官で「ただの島津三郎」でしかない、島津久光。
久光は、本来は公式に将軍や他の藩主と同席できる立場ですらありません。



この俺が、世を変えるのだ!



その俺の行列に対して、
馬で横切るだと・・・



・・・・・
タイミングがタイミングだけに、



馬鹿にしているのか?
と勘繰ってしまったかもしれません。
そして、



斬れ!
と家臣に命じたのです。
実際に「命じた」のではなく、「暗黙の了解だった」という説もありますが、実態は同じことです。



まさか・・・



確かに、それぞれの国には
それぞれの風習がある・・・



それには従わねばならぬ時も
あるだろう・・・
若きアーネスト・サトウは、憤ります。



「刀で脅して、下馬させる」など
他の方法もあっただろう・・・



民間人にプロの侍が斬りかかる
とは・・・



大好きなJapanと、
今後うまくやって行けるのだろうか・・・
そして、大いに悩むアーネスト・サトウでした。