前回は「英国と友好深めよう 2〜英国との歴史 1〜」の話でした。
長崎にグラバー商会を開いたグラバーの最大の目的は、最新鋭の武器を当時後進国で、そこそこの財力のあった日本に売りつけることでした。

グラバーは着実に商売を広めてゆきます。
当時は徳川幕府が、諸藩が独自に貿易することを禁じていたので、幕府相手の商売が多かったでしょう。
同じ九州で時代の最先端を行くことを望んでいた薩摩藩・肥前鍋島藩はグラバーから、武器弾薬を含む様々な商品を購入していたことでしょう。
英国の威信をかけ英国とグラバー自身のため、商売を精力的に広めるグラバーが驚く事件が起きます。
1862年の生麦事件です。
なんと、薩摩藩の事実上のボスである島津久光の行列を「通りかかった」だけでした。
通りかかっただけの英国人4名(女性を含む)に薩摩藩士が斬りかかったのです。

白昼に白刃が飛び交う驚きの状況に、グラバーは声も出ないほど、驚愕したでしょう。
そして、英国人1名がなくなり、2名が重症、女性1人軽症を追います。

あまりのことに言葉も出ないほどの怒りを感じた英国本政府は、幕府と薩摩藩に巨額の賠償金と犯人引き渡しを求めます。
英国からすると「なんという野蛮な後進国であろうか!」と怒り心頭だったでしょう。
しかし、薩摩藩は「我が藩の行列を通りかかった、無礼なお前たち(英国人)が悪い」と突っぱねてきました。

英国は「これは、戦争して懲らしめてやろう!」と奮起して、翌1863年に英国東洋艦隊を薩摩に送ります。

当時の薩摩藩は日本最強の藩であり、武器も比較的新しく大砲もたくさん備えておりました・
英国よりは性能面ではるかに劣ります。
英国は「東洋艦隊を送り込めば、薩摩藩ごとき相手はすぐに全滅できる」と考えたでしょう。
そして「すぐに音をあげて、賠償金を払ってくるだろう。」と。
開戦し、薩摩藩の砲台は全滅となりますが、薩摩側も奮戦します。
なんと旗艦ユーリアラス号が砲撃を受け、艦長のジョスリン大佐が戦死します。

「楽勝だろう」と思っていた英国は焦り、英国艦隊も弾薬が不足したこともあり、仕方なく退却します。
しかも、死者は薩摩藩5名に対して、英国は13名と倍以上の犠牲者が出たのです。
英国側からすると、全くの想定外の事態でした。
遠い極東の地での戦争であり、大英帝国にとっては、一艦隊に過ぎない存在。
とはいえ、当時世界最大の帝国をたった一藩で相手し、撃退した薩摩藩は世界にその名を轟かせます。