前回は「拒否することの大事さ〜トップは矜持を持って、時には断固拒否〜 1」の話でした。
第二次世界大戦の際、米国は、日本を戦争が始まる遥かに前から「敵国」として研究してきた国です。
原爆の製造研究開始後、具体的な完成の目算が立った頃から「どの国(日本かドイツ)のどこに落とすか?」を様々研究していたでしょう。

連合国は日本・ドイツいずれにも1944年時点で、すでに勝利することを確信していたのです。
そして、1945年2月にはトルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連最高指導者はヤルタに集まります。
そして、第二次世界大戦の終わらせ方や戦後の相談をしています。

そして戦後政治も考慮した上で投下国として、米国は最後に日本を選択します。
そして、「日本の都市に投下するか?」が議論になります。
当然日本にとって打撃が大きい方がよく、まず首都東京は検討されたでしょう。
しかし、米国は「戦争しているとはいえ、さすがに天皇のいる首都への投下は民主国家として一線を超えた行為」と考え、「東京は対象外」としたのでしょう。
軍事工場が多い都市など「大きな打撃を与えうる都市」として、小倉・広島・新潟・京都の四都市が候補となります。

日本空襲の指揮をとっていた前線担当者は、盆地で原爆の効果が現れやすい「京都」を第一候補として、Henry Stimson陸軍長官に決裁を仰ぎます。
「決裁」に関しては、米国も日本もある程度は共通している点があるはずです。
「最高意思決定者」であるにHenry Stimson陸軍長官に案が提出された時点で、現場の担当者の統一的見解があ流でしょう。
そして、「基本的にはそのまま決済されるはず」として出されたのでしょう。

米国が圧倒的優位な状況とはいえ、旧日本軍と前線で交戦している担当者からすれば、「日本・日本軍に精神的ダメージも与えてやろう」という意識もあったのは間違いない。
ここで、Henry Stimson陸軍長官は、前線指揮官が想定しなかった行動に出ます。