東照大権現と東京招魂社〜久しぶりの「超正統派」政権の徳川幕府・日本の歴史の時代区分と揺らめく「日本の政権」・大坂幕府と江戸幕府の二頭体制〜|靖国神社と日本人3

前回は「明治維新と東京招魂社〜「新たな世」のシンボルを求めた明治新政府・超平和な江戸時代から大内戦へ・維新成立後も残る各地の大名たちと「徳川幕府の名残」・封建制度破壊の一手〜」の話でした。

目次

日本の歴史の時代区分と揺らめく「日本の政権」

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日の丸(Wikipedia)

義務教育の歴史の授業でも、一般的な歴史でも、日本の歴史は平安時代以降は概ね下記に分けられます。

日本の歴史(平安時代以降)

・平安時代

・鎌倉時代(かつては1192年〜、今は1185年〜)

・(南北朝時代)

・室町時代

・(戦国時代)

・安土桃山時代(安土幕府と大坂幕府)

・江戸時代

・明治時代

・大正時代

・昭和時代

・平成時代

・令和時代

この中で、南北朝時代と戦国時代に関しては、いずれも「他の時代の一部」とも考えられます。

左上から戦国大名 織田信長、豊臣秀吉、北条氏政、徳川家康(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

室町時代末期(戦国時代後期)には、織田信長による政権が樹立されかけました。

信長が強力な権限を持ったのは数年間ですが、「安土幕府」と呼ばれることもあります。

これからは
余の時代なのだ!

そして、本能寺の変を経て、「後を継いだ」と言われる豊臣秀吉。

征夷大将軍には
なり損ねたが・・・

関白・太閤となって、
事実上の、大坂幕府を作るのだ!

秀吉は事実上の「大坂幕府」を作り上げて、「豊臣の世」が続くはずでした。

ダメだ!
これからは「徳川の世」だ!

1600年の関ヶ原の合戦を経て、徳川家康が「事実上の天下の主人」となりました。

大坂幕府と江戸幕府の二頭体制

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豊臣政権 二代目 右大臣 豊臣秀頼(Wikipedia)

徳川殿が強い権力を持った
ようですが・・・

そもそも、徳川家康殿は
私の家臣ですよね・・・

・・・・・

とは言っても、秀吉の息子の秀頼は健在であり、しばらくは「豊臣・徳川二頭体制」が続きました。

この関ヶ原の合戦の際に、なぜか「家臣の分際」の家康は、豊臣家の所領に手をつけました。

豊臣の力を
削ぐのだ!

豊臣家は直轄領の大坂付近の65万石以外に、諸大名から蔵入地を持っていました。

そして、それらの蔵入地が155万石ほどあり、合計220万石の大大名(天下人)だったのでした。

ところが、

豊臣の蔵入地を
廃止してしまえ!

豊臣家の巨頭だった石田三成などが「代官をしていた」蔵入地などを次々と廃止した家康。

この「主人の領土を勝手に家臣である家康が差配した」のは、「その権力は何か?」が疑問です。

戦後のドサクサに「実行した」としても、なんと言っても主人の領土。

少なくとも形式上は「秀頼の家臣」であった家康如きに、なぜ「秀頼の領土が削減できたか」は謎です。

近年の研究では、「ある程度豊臣の蔵入地は残存した」という説もあります。

いずれにしても、220万石から「100万石以下」に一気に格下げされた豊臣家。

徳川の世を
作り出すのだ!

そもそも、家康が「天下を狙った理由」は「家康の野心」が最もわかりやすいです。

織田殿とずっと
一緒に戦い続けてきた・・・

だから、織田殿の
後は、当然私がトップになるのだ!

家康がこう考えたのであれば、それはそれで「ある程度の根拠がある」でしょう。

とにかく、「大坂幕府と江戸幕府の二頭体制」が、関ヶ原合戦後しばらく続きました。

東照大権現と東京招魂社:久しぶりの「超正統派」政権の徳川幕府

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東京(新地球紀行)

現代の首都東京である江戸は、1600年頃は、まだまだ田舎町に過ぎませんでした。

1590年に「関東の覇王」北条氏が秀吉によって潰されて、徳川家が転封された後、

我が徳川が天下人となるために、
江戸を大きく変貌させるのだ!

家康は江戸の巨大開発に乗り出し、家康以降、秀忠・家光の時代に現代の東京の骨格が造られました。

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大阪城(新地球紀行)

そして、関ヶ原直後の頃の大坂城は、現代の大阪(大坂)城よりも遥かに巨大で豪華絢爛の城でした。

この微妙な
二頭体制はなんとかしたいが・・・

そもそも、応仁の乱・戦国時代以降、「日本の政権」は不安定であり続けました。

源氏の家康から見れば、

征夷大将軍でもなく、
昔の関白体制で、時代が切り盛りできるはずがない・・・

この頃から、ポルトガル・スペイン・オランダなど海外との関係が深まっていました。

「公家」の秀頼では、
ダメなのだ・・・

これからの時代は「武家」の
征夷大将軍の徳川でなければ・・・

豊臣家は「権限を持たない」公家にでも
なって、我が徳川に任せて欲しい・・・

関ヶ原の合戦の時に、59歳(数え年)だった家康は、当時の感覚では「すでにかなりの高齢者」でした。

それでも、なんとか「徳川と豊臣の共存を図った」としか思えない家康。

なんとか、豊臣に折れてもらって、
「武家政権」に戻したい・・・

高齢者にも関わらず、待ち続けた家康。

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淀殿(茶々・秀頼の母・豊臣秀吉の妻)(Wikipedia)

はっ!
我が子・秀頼が家康の家臣?

いや・・・
そういうわけではなくて・・・

絶対ダメ!
あなたは秀頼の家臣!

やむを得ない・・・
こうなったら・・・

こうして、1614年〜1615年の大坂の陣が勃発して、正式に徳川の時代になりました。

いわば、久しぶりの「超正統派」政権の徳川幕府が正式に発足したのでした。

これで
大丈夫だ・・・

豊臣の滅亡を待っていたかのように、「当時の超高齢者」だった家康は75歳(数え年)で没しました。

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日光東照宮(Wikipedia)

私は東照大権現となり、
徳川を見守ろう!

そして、東照大権現という「神様」になった家康。

これ以降、平和な江戸時代は「徳川家の将軍が代々神様」という扱いになりました。

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明治維新の元勲たち:左上から時計回りに、木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

そして、徳川幕府を倒幕して「新たな政権を樹立した」明治新政府にとっては、

東照大権現は
困るな・・・

徳川の世が終わった
「新たなシンボル」が必要だ・・・

やはり、討幕で亡くなった
方々をしっかり祀るのが良いだろう!

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靖国神社(新地球紀行)

このような「明治新政府の思惑」もあり、「新たな追悼施設」が求められました。

様々なあった、維新直後の1869年の混乱期に靖国神社の前身・東京招魂社の設立したプロセス。

その大きな理由の一つは、「徳川家を神とする」発想からの大転換を図った事でしょう。

次回は上記リンクです。

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