前回は「東郷外相「最後の瞬間まで平和の為に努力」〜「1933年から国務長官」ハル・誰にも止められなかった「米国との戦争」・佐藤尚武元外相「もはや無理」〜」の話でした。
東郷茂徳「結局は時の問題」:時を延引は米の利益+日本の不利益

1931年の満洲事変以来、ずっと中国大陸で戦争を続けていた大日本帝国。
当時、大日本帝国・中華民国双方が宣戦布告をしなかったため、「支那事変」と呼んでいます。
そして、支那事変は泥沼化し、大日本帝国は、どうにもならない状況に追い込まれていました。
その中、対米戦争を開始した1941年は、大日本帝国政府の外相が2度代わりました。
| 人名 | 外相就任日 |
| 松岡洋右 | 1940年7月22日 |
| 豊田貞次郎 | 1941年7月18日 |
| 東郷茂徳 | 1941年10月18日 |
コロコロ大臣が変わる傾向がある現在の日本政府を考えると、「日本らしい」とも言えます。
その一方で、よりによって外交のトップである外務大臣が代わり過ぎたのも事実です。

対米戦争開始時点、そして敗戦時点の両方の時点で外務大臣であった東郷茂徳。
それぞれの時点での出来事を、戦後、東郷外相は「東郷茂徳外交手記 時代の一面」に記録しています。
両方の時点の間に、兼任を除き、一度、重光葵が外務大臣となっています。
外相就任早々に、ハル・ノートを受領し、
東郷茂徳こ、
これは・・・・・
極大衝撃を受けた東郷外相。



更に米国に反省を求め、最後の瞬間まで、
平和の為に努力し、



又、戦争となった場合には、日本及び世界の為
戦争の早期終結の為、全力を尽くす決心をした。



米が八月以来、戦争を予定したいたことは
既に述べた。



日本が米の要求の全部を容れざる
限りは戦争であり、



日本が其の全部を容れざることも
予期していた。



結局は
時の問題であった。



而して、時を延引するのは米の利益、
日本の不利益で、



兎に角、事態をはっきり
せしむることが必要であった。
ここで、東郷茂徳は「結局は時の問題」とはっきり述べています。
更に、「時を延引するのは米の利益、日本の不利益」とまで断言した東郷。



東條内閣の功過は
これのみ。
更に「東條内閣の功過(過失)はこれのみ。」と付記しています。
「ジリ」貧に陥って自滅か、戦争か:強まる米英豪の対日包囲陣


1941年前後の大日本帝国の外交は、米国中心であり、日本なりに懸命に外交努力してきました。
その一方、米国側の視点から見れば、「譲歩しない日本の姿勢」に対して不信感を持っていたようです。



戦う外なしとの
結論に一致す



「ハル」公文に対する見当は
既に述べたる通り、



十一月二十七日連絡会議、
二十八日閣議において開始せられ、



三十日に決定を
見たのであるが、



米はこれにより、日本を東亜大陸から
放逐せんとするものであり、



日本が大陸から全部的退却をしない以上、
いつかは米英との戦争となるべきことが予想せられ、



さらに軍部では、
米英が独伊を征服した後には、



強圧を日本に加えることになるが、
其の時には日本は「ジリ」貧に陥っているので、



立ち上がる力はない、
そして今ならば戦うことも可能であり、



其結果も悲観を要しないのであるから、
米の挑戦に応じて立ち上がるべきであり、



又、野村大使来電の如く、蘭印が米英に
よって占領せられる場合には、



日本は万一の際の石油供給主要地域を
遮断せらるるので、生命の問題である。
東郷外相は、軍部が「このままでは状況が悪化するだけ」という認識だったことを述べました。


更に、海軍大将であり、「原油の供給」は、陸軍よりも遥かに懸念が強かった海軍出身の野村大使。
とにかく、事態は「待ったなし」の中、ハル・ノートが飛来したことになります。



殊に対日包囲陣は、日に日に強化せられており、
米豪軍隊は比島及び蘭印方面に増加せられ、



英海軍の有力部隊も馬来方面に
急派せられつつある模様であるから、



このままに遷延する場合には、
日本は自滅の外ないのであるから、



速に開戦に
決すべき!



との
主張であった。
当時、米英豪が急速に、大日本帝国に軍事的圧力を掛けてきたことを明確に述べた東郷外相。
「やらなければ、自滅するだけ」の中、対米戦へと突き進んでゆきました。
そして、大日本帝国は、本当に「滅亡寸前」まで追い込まれることになります。

