前回は「東郷外相「ハル・ノートに痛く落胆し辞職考慮」〜親日家グルー大使・「目をつむって鵜呑み」出来ない過酷な要求・軍部「それ見たか!」〜」の話でした。
誰にも止められなかった「米国との戦争」:佐藤尚武元外相「もはや無理」

Hull私が、Japanにお伝えするのは、
これ(ハル・ノート)です。
ハル・ノートを見て、驚愕した帝国政府。


この頃のことを、戦後、当時の東郷外相は克明に記録に残しています。



自分ががっかりして来たと反対に、
軍の多数は、米の非妥協性を高調し、



それ
見たか!



という気持ちで、意気益々
加わる状況にあって、



これに対抗するのは
容易なことではなかった。
絶望していた東郷外相はじめ外務省とは対照的に、意気揚々としていた軍部。



事志と違うて、戦争に突入しなくては
ならないのは、いかにも心苦しいので、



辞職をも考えて、
佐藤顧問其他に対し、



何人か自分に代わって事態を戦争以外の
方面に導き得る人はないか、と質したが、



それは他の何人にも期待し得られないことで
あるから、自分に是非留任するように、とのことであった。


切羽詰まった東郷外相は、元外相の佐藤尚武 外務省顧問に相談しましたが、



もはや、誰も米国との
戦争は止められないだろう・・・



だから、あなたが辞任しても
現状は変わらないから、留任するのが良い。
佐藤顧問は、東郷外相に「誰が外相になっても、もはや同じ」と告げました。
佐藤顧問は、後にロシア大使となります。
そして、第二次世界大戦敗戦直前に対日宣戦布告を、モロトフ・ロシア外相から受け取ることになります。
そのような「暗黒の未来」は、全く知らない佐藤顧問。
外務省は、「匙を投げた」状況となってしまいました。
東郷外相「最後の瞬間まで平和の為に努力」:「1933年から国務長官」ハル


そもそも、大日本帝国の外相は、1941年は2度も変わりました。
| 人名 | 外相就任日 |
| 松岡洋右 | 1940年7月22日 |
| 豊田貞次郎 | 1941年7月18日 |
| 東郷茂徳 | 1941年10月18日 |
東郷外相からすれば、「外相就任後一月ちょっと」で受け取ったハル・ノート。
それに対して、米国はハル国務長官は長きにわたって国務長官を続けていました。



私は1933年3月4日から
国務長官です。
1933年3月4日から、1944年11月30日まで、11年半ほど国務長官を務めたコーデル・ハル。
最後は、健康状態を理由に国務長官を辞職した説が有力です。
日本のように、コロコロ総理や閣僚が交代するのと比較すると、米政治は極めて安定しています。
1941年11月末時点で、「既に8年以上も国務長官」だったハル。
ハルからすれば、



1931年、JapanがManchuriaで
暴れ回った時は、上院議員だった・・・
1931年の満洲事変以前から、大日本帝国を注視し続けていたのでした。
東郷外相から見れば「突然」でしたが、



Japanよ、もういい加減に
しないか・・・
ハル国務長官から見れば「ようやく出した」印象すら受けます。



予が十一月初め交渉を開始した時に
予期した以上に、米が非妥協的であり、



ことに全面的屈伏下、戦争を求めて来たのであるが、
日本はすこぶる屈辱を甘受する訳に行かず、



止むなく立つ、という状勢に
陥ったのである。
ここで、東郷外相は「止むなく立つ」に陥ったと説明しました。



日本は満洲事変以来、緊張し切って居るので
あるから、緊張した力を発揮した後ならいざ知らず、



1941年11月の頃に、米の圧迫に全面的に
屈伏し得る内閣が出来ようとは考えられなかった。
もはや、誰が総理であり、どの内閣でも「米国に全面屈伏はない」状況だった日本。



したがって、内閣更迭を計っても
事態の改善にはなり得ないし、



又、予が辞職する場合、一身の安全を
保全することになるかも知れぬが、



徒に責任を逃避することになるのみであったので、
自分は敢えて職に留まって、



更に米国に反省を求め、最後の瞬間まで、
平和の為に努力し、



又、戦争となった場合には、日本及び世界の為
戦争の早期終結の為、全力を尽くす決心をした。
ここで、東郷外相は、「米国に反省を求める」気持ちだったことを明らかにしました。
確かに、「国辱的文書」だったハル・ノート。
外交儀礼としても「あり得ない」文書でしたが、ハル国務長官からすれば、



ずっと我慢して交渉してきたが、
Japanは全然折れない・・・



これでは、交渉にならぬから、
これ(ハル・ノート)を出すしか他に方法がない。
このようにも考えていたようにも感じられます。
いずれにしても、ハル・ノートによって、日米戦争開戦は決定しました。
あとは、「どちらが、どのように開戦するか」が、日米両国の最終決定事項となりました。

