前回は「「対米外交の舵取り」誤った外務省〜外交素人+英語オンチの野村大使・海軍エリートコース歩いた野村吉三郎・山本五十六との野村の良好な仲〜」の話でした。
帝国海軍の対米戦の「マズイ布陣」:外交オンチの野村が大先輩

日本人にとって、第二次世界大戦は「太平洋戦争」と呼ぶことが多いです。
本来ならば、大日本帝国が正式に命名した「大東亜戦争」と呼ぶべきです。

大東亜戦争という言葉は、
大東亜共栄圏を肯定する感じが・・・
ところが、大日本帝国が、自己の都合のために「大東亜共栄圏」という言葉を生み出した歴史があります。
そのため、「大東亜戦争」という呼び方は、全く一般的ではなく、書籍などにおいては珍しいです。
「太平洋戦争」以外に「アジア・太平洋戦争」という呼称もあります。
いずれにしても、これらの名称は、当時の大日本帝国が「主とした戦場の場所」を指しています。
なんといっても、「米国に叩き潰された」大日本帝国にとっては、「太平洋こそが主戦場」でした。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
26 | 野村 吉三郎 | 大砲 | 米国大使 |
28 | 永野 修身 | 大砲 | 軍令部総長 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
32 | 嶋田 繁太郎 | 大砲 | 海軍大臣 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
39 | 伊藤 整一 | 大砲 | 軍令部次長 |
当時は、帝国海軍の最年長者である野村吉三郎が米国大使となり、「帝国海軍」が米国と戦う構図でした。
若い頃から優等生であり、ソツがない野村吉三郎は重役をこなした「海軍の重鎮」でした。


これらの帝国海軍の大幹部全員が「同じ海軍兵学校卒業生」でした。
現代の「大学」に相当する海軍兵学校ですが、「学生時代の上下関係」は一生続きます。
対米戦において、帝国海軍の最重鎮として、軍令部総長を長年務めた永野修身ですら、



野村さんは
ワシの先輩であるからな・・・
野村に「後輩として遠慮せざるを得ない」立場でした。
この点で、「外交オンチ」である野村が「形式的トップ」であった帝国海軍は「マズイ布陣」でした。
日米交渉継続中に出撃命令した山本長官:海軍No.1とNo.2の頂上決戦


野村大使や来栖特別大使の手記が残っていますが、後世から見れば、



Japanとは
戦争をすることに決めているのだ!
早い時点で、米国が「対日戦を決定していた」としか思えないのが実情です。
おそらく、野村・来栖が交渉する前から、ルーズベルト大統領は「対日戦」を決定していたでしょう。
当時、圧倒的な超大国であった米国は、大英帝国や中国を「あからさまに支援」していました。
そして、圧倒的な陸海軍を有する米国でしたが、



どうも、Japanの
陸海軍は結構強力なようだ・・・
海軍次官経験者であり、「米海軍を誰よりも深く知る」ことを自認していたルーズベルト大統領。
そのルーズベルト大統領の元には、多数の帝国陸海軍の情報が分析された上、集められました。





我がUSの海軍は
世界最強だが・・・



太平洋と大西洋の
両方を押さえる必要がある・・・



対して、Japanは太平洋で
我がUS海軍と戦うが・・・



Japanの海軍力は、
かなり強い・・・


実際、この頃の大日本帝国海軍の戦力は、世界No.2でした。
No.1はもちろん米国ですが、「No.1に迫る勢い」だったNo.2が帝国海軍でした。
この中、ルーズベルト大統領はじめとする米政府大幹部は、「対日戦の準備」を着々進めていました。
後世から見れば「無意味でしかなかった」日米交渉。
この「無意味な交渉」は、米国からすれば「対日戦準備の時間稼ぎ」でした。
野村大使の交渉もまた「時間稼ぎ」が目的であれば、「目的達成」でしたが、



とにかく、米国との
戦争を避けるのだ・・・
真面目に「無意味な交渉」を続けていた野村大使は、悲壮感を超えて滑稽な存在でした。
実際、「日米戦が始まる時期」は早い方が、大日本帝国には有利でした。
そして、「米国が対日戦を決めている」ことを感じていた帝国陸海軍軍部。
対米戦の最終決定は、1941年12月1日の午前会議ですが、すでに開戦を決めていました。


日米交渉が「形式的には継続していた」11月20日、山本長官は南雲長官に指令を下しました。



第一航空艦隊に
命令する!



はっ!



11月26日に、真珠湾向けて
出撃せよ!



承知
致しました。
ちょうど「ハル・ノート交付」と同日となった11月26日。
南雲長官率いる第一航空艦隊は、はるばる一路、真珠湾目指して出撃しました。
この時点では、山本長官が「日米交渉妥結に一縷の望みを託していた」説もあります。



日米交渉妥結の際は、
途中で引っ返して来い!



はっ・・・・・
その一方で、山本長官は「既に日米戦やむなしと観念していた」と筆者は考えます。
海軍中心の日米戦は、いわば「世界の海軍No.1とNo.2の頂上決戦」でした。
そして、ついに「世紀の大奇襲攻撃」が始まろうとしていました。