前回は「異様に楽観的だった野村米大使と大使館員〜対米戦決定の御前会議・緊張感みなぎっていた欧米首脳陣・独ソ戦開始とドイツの戦線拡大〜」の話でした。
真珠湾奇襲攻撃を成し遂げた山本長官:「大奇跡」の空母航空隊育成

アジアで戦線を拡大し続けていた大日本帝国は、ついに対米戦を敢行するに至りました。
最後の最後まで日米交渉を続けながら、

米国に勝つには、
真珠湾奇襲攻撃しかない!
乾坤一擲の真珠湾奇襲攻撃を、早い時期から準備してきた連合艦隊。



緒戦で、米太平洋艦隊の
基地である真珠湾を潰す!
この「真珠湾奇襲攻撃」は山本長官が軍令部の反対を押し除けて、強行して推進しました。



そして、米海軍がしばらく
太平洋で活動できなくするのだ!


この頃の世界海軍において、「正規(大型)空母六隻ではるばる真珠湾を奇襲」という発想は皆無でした。
山本五十六長官に対する様々な評価はありますが、この点で彼の能力は「卓抜していた」と言えます。



空母の大艦隊が
遠くに出撃するなど、今までなかった・・・
そして、この「奇襲攻撃」が「空母を主軸とする攻撃」であることが最も重要なことです。



「今までなかった」からこそ、
我が連合艦隊が、初めて実行するのだ!
それまでの長い歴史において、「戦艦を主軸として行われてきた」のが実情でした。


日本にとって「運命の分かれ目」となった日露戦争の日本海海戦。
1905年に行われたこの海戦では、空母・航空隊の影すらなく、戦艦による砲撃で決まりました。
そして、1884年に生まれた山本(当時は高野)五十六は、日本海海戦に21歳で参加しました。



日本海海戦か・・・
あの頃は、私も若かったが・・・
この日本海海戦で重傷を負った若き山本(高野)少尉は、左手の中指と人差指を失いました。
この海戦以降、第一次世界大戦に参加し、満州事変(戦争)以降アジアで戦争を続けた大日本帝国。


山本五十六は主に海軍省に在籍して、列強との条約締結などに紛争しました。



Yamamotoは、
他のJapaneseと全然違うな・・・
諸外国の様々な人物に鮮烈な印象を与えた山本は、早い時期から、



我が国は空母・航空隊の
育成が最重要なのだ!
「戦艦中心」であった世界中の海軍の発想とは異なり、「空母・航空隊」の育成に力を入れ続けました。
海軍航空技術部長・海軍航空本部長(海軍次官同等)を長年勤め上げ、空母航空隊を産んだ山本。


当時の日本の国力を考えれば、「正規空母六隻と航空隊」を揃えたのは奇跡に近い状況でした
この「奇跡」を生み出したのが山本長官でした。
真珠湾米太平洋艦隊の諜報活動の狙い:海軍若手・吉川猛夫の大活躍


ここで極めて重要な人物が軍令部から、ハワイ・ホノルル日本領事館に派遣されていました。
若き海軍少尉だった吉川猛夫です。
1912年に生まれ、海兵61期の超若手であった吉川。
少し病気がちであった彼は一度は予備役になるも、今回復帰しました。



海軍のために
役に立ちたい!
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 第一航空艦隊司令長官 |
40 | 宇垣 纏 | 連合艦隊参謀長 |
41 | 草鹿 龍之介 | 第一航空艦隊参謀長 |
61 | 吉川 猛夫 | 海軍軍令部・日本領事館付武官 |
海軍の総本山である軍令部から、吉川に超重要な指令が下されました。



吉川よ・・・ハワイへ向かい、
米太平洋艦隊の状況を探知せよ・・・



はっ!
直ちにハワイへ向かいます!



お前は今日から
「森村正」と名乗るのだ!



はっ!
今日より私は「森村正」です。
スパイであるため、本名の「吉川猛夫」ではなく、「森村正」を名乗ることになりました。
以下では、「吉川猛夫」で通します。
そして、ハワイ総領事に向かった吉川。
迎えたのは、喜多長雄・ハワイ総領事でした。



森村君!
よくぞ、総領事に新たにきてくれた!



はっ!
新たに来た森村です!
そして、森村となった吉川に近寄って行った喜多は、小声で、



吉川君だね・・・
全て聞いているよ・・・
こう囁いて、若手の吉川を鼓舞したのでした。



よしっ!
ハワイ太平洋艦隊の全てを掴んでやる!
こう勇んでいた吉川でしたが、米太平洋艦隊の本拠地の守りは堅いです。



なかなか、大事なところに
近寄れないな・・・
吉川に課された「超重大な任務」とは、「太平洋艦隊が多数いる時期を把握すること」でした。



真珠湾の米太平洋艦隊に
奇襲攻撃を仕掛けるが・・・



肝心の米太平洋艦隊が
多数いる時でなければ、意味がない・・・



特に、米空母が在泊する
時期・パターンを把握したい!
このような山本長官の強い意志があり、「米太平洋艦隊の動き」を探るのが吉川の役目でした。



必ず・・・必ず、
米太平洋艦隊の動きのパターンを掴んでみせる・・・
現代、「スパイ天国」と呼ばれる日本は「諜報活動は全くダメ」な印象があります。
海外から「諜報活動されっぱなし」で、こちらから「諜報活動をしている痕跡がない」ような日本。
ところが、この当時は、日本陸海軍ともに諜報活動にはかなり力を入れていたのが現実でした。
超若手の吉川の大活躍が始まろうとしていました。
次回は上記リンクです。