日本らしい「曖昧で正反対」の条項の盟約書〜岩倉使節団と留守政府間の誓い・明治新政府の大幹部四名中三名が「欧米使節団」に出陣・「岩倉使節団」の基本アイデアを生んだ超優等生大隈重信〜|明治のかたち5・幕末から明治そして現代へ

前回は「維新後も続く薩摩・土佐間の強烈な不協和音〜激怒した大久保利通・薩長中心の連合軍のそれぞれの思惑・奇想天外の大政奉還を主導した土佐・坂本龍馬の暗躍と徳川慶喜の決意〜」の話でした。

目次

「岩倉使節団」の基本アイデアを生んだ超優等生・大隈重信

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民部大輔 大隈重信(Wikipedia)

岩倉具視を全権大使とする「岩倉使節団」が日本を発って米国へ向かいました。

岩倉具視・大久保利通・木戸孝允たち「政府首脳部」が大挙して欧米訪問へ向かった「大使節団」でした。

そもそも、この使節団を画策したのは佐賀出身の大隈重信でした。

幕末の欧米と結ばされた
不平等条約の改定をしたい・・・

そして、欧米と伍すためには
欧米を直接見た方が良い・・・

当時、学問の最先端地域であった佐賀藩。

「日本の窓口」長崎とは隣り合っていて、歴代藩主・鍋島家は勉学を強く奨励しました。

「葉隠」を読んで育った佐賀藩士たちは、「勉強しなければ罰せられる」環境で猛勉強しました。

さらに、長崎へ行って外国人から直接学べる環境が整っていた佐賀藩では、英語の勉強も盛んでした。

当時の明治新政府首脳の中で、井上や伊藤と共に「英語が話せる」極めて少数派の一人だった大隈。

外国人と英語でやり取り
するのは、得意だ!

だから、私がボスになって、
小規模の使節団を欧米に派遣しよう!

後に総理大臣になり、早稲田大学を開学した超大物・大隈重信。

度胸もあった大隈は、若い頃から異常に積極的な人物でした。

ところが、ここで「待った」をかけた人物がいました。

内務卿 大久保利通(Wikipedia)

ちょっと待った!
その「欧米への使節団」のアイデアは良い!

大隈が行っても良いが、
我ら大物が行くのが良いだろう!

政府が変わったのを承認してもらったが、
我ら大幹部が欧米に挨拶に行くのだ!

それは・・・
はあ・・・

やる気満々で「自分が行くつもり」だった大隈は、ガッカリですが、仕方ありませんでした。

明治新政府の大幹部四名中三名が「欧米使節団」に出陣

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明治維新の元勲たち:左上から時計回りに、木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(国立国会図書館)

突然割って入って、大隈の「欧米使節団」のアイデアを横取りした大久保。

我らが欧米に行くから
いいだろう!大隈!

明治維新の超大物

・公家:岩倉具視

・薩摩:西郷隆盛、大久保利通

・長州:木戸孝允

維新政府の超大物であった大久保利通に凄まれては、相当の交渉力を持っていた大隈と言えども、

はい!
もちろんです!

こう答えざるを得ませんでした。

本当は俺が
行きたかったんだがな・・・

まあ、仕方ない・・・
俺も混ぜてもられるかも・・・

こう考えていた大隈でした。

明治維新における序列

・1位・薩摩:西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀など

・2位・長州:木戸孝允・広沢真臣・大村益次郎など

・3,4位・土佐と肥前:板垣退助・後藤象二郎・江藤新平など

この頃、「薩長土肥」と言われ、格としては「四番目」の肥前。

当時「最先端地域であり、学問の都」であった肥前でしたが、討幕戦での貢献は小さかったのでした。

そのため、「発言権が極めて制限されていた」のが肥前でした。

やむを得ない・・・
薩長主導だからな・・・

岩倉使節団の目的

1.江戸時代に締結した(させられた)不平等条約改正の(予備)交渉

2.条約締結中の先進国の国家元首に国書を提出

3.西洋の先進文明の実地調査

大久保たちは、「小規模使節団」を大拡大して「岩倉使節団」に編成して、目的を掲げました。

さらに勝手に人選を開始して、

とにかく、私と岩倉さん、
木戸さんが行くのだ!

なんと「維新・新政府の超大物」である四名のうち、三名までを派遣することに決めた大久保。

留守は吉之助(西郷)さぁに
任せればよか!

実際、大久保は海外を見たかったのでしょう。

薩英戦争で戦った
エゲレスなどを見てみたか!

そして、大久保たちは全部の人選を異常な速度で決めてしまいました。

岩倉使節団の大幹部

・正使:岩倉具視(公家)

・副使:大久保利通(薩摩)、木戸孝允(長州)、伊藤俊輔(博文)(長州)、山口尚芳(肥前)

当時の日本の感覚としては、はるか格上の存在であった欧米。

この使節団は「出陣の如き」気持ちで臨むことになりました。

ところが、最初に「使節団のアイデア」の原型を作った大隈は外されてしまいました。

なぜ、俺が
外されるんだ・・・

俺は英語が結構できるし、
そもそも俺のアイデアなのに・・・

歯切りしするも、大久保と木戸が決めた人選には、大隈は「異論を挟む」立場ではありませんでした。

日本らしい「曖昧で正反対」の条項の盟約書:岩倉使節団と留守政府間の誓い

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岩倉使節団の留守政府幹部たち:左上から時計回りに、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助(Wikipedia)

おいどんは、別に
欧米をみたいとは思わなか・・・

それでは、留守は
吉之助(西郷)さぁにお任せするばい!

この「岩倉使節団構想」を練っていた1871年は、「日本で革命的事態」が起きていました。

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廃藩置県:1872年(Wikipedia)

幕藩体制の藩主たちを消して、新たに「県令を設置」した大改革・廃藩置県が実施されたのでした。

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左上からH.Parkes英国公使、Matthew Perry米提督、Townsend Harris駐日米大使、Leon Roches駐日フランス帝国公使(Wikipedia)

この大改革が「あっさり実行された」事態に、諸外国は驚愕しました。

なんと、こんなに簡単に
領主たちが領土と領民を手放すとは・・・

我がGreat Britainで同じことを
やるならば、大変な事態になるだろう・・・

我が国で実施しようものなら、
数年は戦争になるであろう事態だ・・・

個人の権利意識が強かった「民主主義の本場」の大英帝国ならば、大規模な内戦が起こる事態でした。

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明治天皇(国立国会図書館)

明治天皇陛下の名の下に、
廃藩置県を断行する!

実際には、大借金に明け暮れて、

もう、藩主でいることが
辛い・・・

ある程度身分が保たれるなら、
廃藩置県には喜んで応じたい・・・

という声があったのが現実ですが、「天皇パワー」で一気に断行した明治政府。

Japanという国は、
何という特殊な国なんだろうか・・・

廃刀令・秩禄処分はまだ先とはいえ、「士族・武士の権利」が減少しているのが目に見えている状況の中、

おいどんは
士族は大事にするごわす・・・

と考えていた西郷が「事実上の内閣総理大臣」として「留守政府」を司ることになりました。

ここで、

留守政府には
あまり勝手なことを進められると困る・・・

と考えた大久保たち。

大久保たちの岩倉使節団と、西郷たち留守政府の間では数箇条の盟約書が締結されました。

岩倉使節団と留守政府間の盟約書

第6条:内地の事務は大使帰国の上で大いに改正するの目的なれば、其内可成丈新規の改正を要す可らず

第7条:廃藩置県の処置は内地事務の統一に帰せしむべき基なれば、

   条理を逐て順次其効を挙げ、改正の地歩をなさしむべし

つまり、第6条では「留守政府は勝手に大事なことを進めるな」として、

新たなことをたくさんやって
改革をしすぎるな!

と、ハッキリ釘を刺しています。

一方で、第7条では「廃藩置県関係は、どんどん進めるべき」と、

廃藩置県は「国家の骨格」が変わったから、
関係することは改革推進すべし!

と「見方によっては真逆」の条項が並んでいたのでした。

この「日本らしい曖昧さ」が後に「甚大な禍根」を残すことになったのでした。

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