プロイセンでの衝撃と大久保のビスマルクとの邂逅〜岩倉使節団・思い切った明治新政府の大派遣団・条約改正の大失敗・外交の基本「国家元首の親書・委任状」〜|明治のかたち2・幕末から明治そして現代へ

前回は「支持率急落の岸田政権と日本の未来〜現代日本政治の骨格の明治新政府・幕末の薩摩と大英帝国・薩英戦争とジャーディン・マセソンのグラバー・明治新政府の海外諸国への視線・徳川を支援したフランス〜」の話でした。

目次

岩倉使節団:思い切った明治新政府の大派遣団

岩倉使節団(Wikipedia)

1868年に明治維新を成し遂げ、「新たな世」を生み出すことを目指した明治新政府。

まずは、江戸時代末期に強引に締結させられた欧米各国との「不平等条約の改正」もまた最重要課題でした。

そして、岩倉具視を全権正使、大久保利通らを副使とする「岩倉使節団」が、1871年12月に日本を出発したのです。

岩倉 具視(Wikipedia)

総勢107名で、2年弱にも及ぶ大旅行でした。

不平等条約を
少しでも改正するのだ!

とにかく、世界を
この目で見るのだ!

岩倉使節団の目的

1.江戸時代に締結した(させられた)不平等条約改正の(予備)交渉

2.条約締結中の先進国の国家元首に国書を提出

3.西洋の先進文明の実地調査

岩倉使節団には、大きな目的が3つありました。

徳川幕府が結ばされた
不平等条約をなんとかしなければ・・・

明治維新を起こして、徳川幕府の体制を叩き潰した岩倉・大久保たちの薩長勢力。

大英帝国などに「新政府を承認」してもらいましたが、

Japanでは国家元首が
Tokugawaから変わって新体制になったらしい・・・

元々Emperorはいたが、Meiji Emperorが
新たな元首か?

この新しい体制というのは、
本当にちゃんとしているのか?

海外からすれば、「徳川からの新体制」は大いに歓迎するものの、それまでは「徳川と交渉」していたのでした。

そのため、一気に

今度からは、
私たちが日本のトップです!

と言われても、半信半疑の方も多かったでしょう。

このため、岩倉・大久保たちとしては、

なんとしても、我らこそが
日本政府の代表であることを、各国に知らしめねば!

こう考えていたでしょう。

一度は失脚して政界から追放された岩倉。

40前後を蟄居の立場で過ごすものの、謀略の限りを尽くして、幕末に暗躍しました。

大蔵卿 大久保 利通(Wikipedia)

どの国を
模範とすべきか・・・

岩倉使節団は、米国・欧州各国を周り、概ね熱狂的に歓迎されます。

歓迎された理由は、「日本が大歓迎された」というよりも「日本人が珍しかった」ことが大きな理由です。

Japaneseは、
服装が全然違うぞ!

髪型も、
何か変ね・・・

私たちの国の違いとは、
大きな違いだ!

条約改正の大失敗:外交の基本「国家元首の親書・委任状」

明治天皇(Wikipedia)

大歓迎されて、気分を良くした岩倉使節団。

我らも
大歓迎を受け、嬉しいですな・・・

ところが、

条約改正の話をするには、
国家元首の親書・委任状が必要ですが・・・

し、親書か委任状
ですと!?

それがないなら、
話になりませんな・・・

だから、我らが国家元首である
天皇の代理なんです!

それを示す証が
なければなりません・・・

御国に伺った我が国のPerry提督も
大統領の親書を持参したはずですが・・・

確かにそんな
話を聞いたことがある・・・

新地球紀行
Matthew Perry米提督(Wikipedia)

これは、
しまった・・・・

明治天皇の委任状を忘れた岩倉使節団は、

岩倉さんたちは、
ここで待っていてください!

私と伊藤が
明治天皇の元に行ってとってきます!

急遽、大久保たちが明治天皇から委任状を受け取りに帰国します。

そして、再度米国を訪問しました。

これらが、「当初よりもはるかに長い大旅行となった」大きな理由です。

委任状があっても、

Japanは、
まだ法整備が整っていない。

条約改正を話すレベルに
達していない。

欧米各国からは、熱烈歓迎されるものの、政府としての扱いは非常に軽かったのです。

結局、条約改正の端緒すら得ることは叶わなかったのでした。

「大失敗」というよりも「まともに欧米に交渉の相手になってもらう」ことすらできませんでした。

やはり、
もっと日本は進まなければ!

一度は、失意に沈んだ大久保等も、米国の最新鋭工場などを見て周り、

日本がアジアで
最強になるのだ!

という決意をします。

プロイセンでの衝撃:大久保のビスマルクとの邂逅

Otto Von Bismarckプロイセン王国首相

こんにちは。
Japanの皆さん・・・

プロイセン(ドイツ)で出迎えた、ビスマルク首相。

訪問する直前には、大国フランスと普仏戦争を戦い、事実上勝利したプロイセン。

皇帝Napoleon III(Wikipedia)

非常に強力なプロイセンに対して、ナポレオン3世率いるフランスは大敗を喫します。

我が誇りある
Franceが新興国のPrussiaに敗北した・・・

フランスの軍服を着る徳川幕府第十五代将軍 徳川慶喜(Wikipedia)

かつての敵・徳川慶喜はフランスに傾倒して、幕軍はフランス一本にしました。

陸軍は、世界最強のフランスに
見習うのだ!

第十五代将軍・徳川慶喜は、ナポレオン3世からもらった軍服を着て、撮影するほどの仲でした。

フランス皇帝 Napoléon Bonaparte(Wikipedia)

ナポレオン3世は、失脚したナポレオン・ボナパルト元皇帝の甥です。

あの強国フランスを
打ち破ったのか。

政治には帝国主義が
一番良いと考えます。

そして、Franceを
打ち破りました!

これからのEuropeは
我がPrussiaの時代ですぞ!

「鉄血宰相」と呼ばれたビスマルク首相の話に、大久保は感激してしまいます。

この頃の、プロシアは帝国主義を剥き出しにして、ドイツ帝国となる過程にありました。

とにかく、
領土を拡張するのだ!

これは、
素晴らしい!

プロイセンに
見習おう!

日本陸軍は、
プロイセンに見習うのが良さそうだ!

こうして、日本が第二次世界大戦で三国軍事同盟を締結するドイツとの親密な仲が始まりました。

新地球紀行
Adolf Hitler独総統(Wikipedia)

第二次世界大戦の前から、ドイツと軍事同盟を結び、ヒトラーと共に「世界を敵に回して戦った」歴史を持つ日本。

この「ドイツと組む」ことの原流は、日独伊三国軍事同盟締結の約70年前の出来事でした。

岩倉使節団における大久保が、あまりにプロシアのビスマルクに感激したこと。

これがなければ、明治新政府の方針は大きく変わり、第二次世界大戦における日本の歴史も変わったでしょう。

新地球紀行

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