日英の友好 20〜大英帝国とフランス〜|薩英戦争

前回は「日英の友好 19〜薩摩と大英帝国の交渉〜」の話でした。

アヘン戦争(Wikipedia)

1863年に大英帝国と薩摩の間で勃発した薩英戦争の23年前の1840年。

大英帝国と清国の間でアヘン戦争が勃発しました。

この頃、世界最大のGDPを持ち、文字通り「中華思想」であった清国。

GDPでは遥かに目上の存在だった清国に対して、急速に工業力をつけた大英帝国が戦争を吹っ掛けた形でした。

そして、2年ほどの戦争で大勝利をおさめた大英帝国は、清国に対して不平等条約を突きつけました。

両国の間で南京条約が締結された1842年の14年後の1856年、また両国の間で戦争が勃発します。

今回は、大英帝国とフランスが組んで清国と戦争をしたアロー戦争(第二次アヘン戦争)です。

アロー戦争:清国の広州に侵入する英仏連合軍(Wikipedia)

まだ、南北戦争などで国内が固まってなく「若い国家」であった米国。

ドイツ(プロシア)は、当時は英仏よりも近代国家の成立が少し遅れていたため、英仏が世界最強の二強でした。

Napoléon Bonaparte仏皇帝(Wikipedia)

1800年ごろにフランスで急速に台頭し、皇帝にまでなったナポレオンが欧州を蹂躙しました。

その「ナポレオンのフランス帝国」の膨張を戦争で止めた大英帝国。

Arthur Wellesley_1st Duke of Wellington公爵(WIkipedia)

後に没落したとはいえ、一時はフランス国民が諸手を奮って大歓迎した「ナポレオンのフランス帝国」。

そのフランス帝国を打ち砕いたのが大英帝国であり、歴史的に犬猿の仲です。

アジアの進出において、その「犬猿の仲」が国益のために手を結んでいました。

John Neal駐日代理公使(Wikipedia)

世界最大のGDPを持ち、
Asiaで圧倒的力を持った清国を恫喝したのだが・・・

Tokugawaも同様に、
Namamugiの件で恫喝して、賠償金を取れた・・・

しかし、Satsumaは
全然違う・・・

薩摩の岩下方平・重野安繹らの強行かつ合理的主張に、アジアで初めてたじろぎました。

大英帝国 外交官 Ernest Satow(Wikipedia)

Franceとも協調して、
Satsumaに当たっております。

しかし、国際法に疎いはずの
Japaneseですが、Satsumaの主張は法的に合理的です。

難しい交渉だな。

はい。

しかし、これだけ
優れた人物がいて、強力な軍隊を持つSatsuma・・・

今後、
Japanの主流になるかもしれんな。

Satsumaとは外交関係を
強めておくのが良いかと・・・

うむ。
清国の時のように、強行一点張りはやめよう。

うまく、
話をまとめよ!

はっ!

大英帝国の代表であるNeal駐日代理公使の命を受けた、外交官 Ernest Satowは密かに薩摩と接触を図ります。

薩摩藩士 岩下方平(Wikipedia)

我がGreat Britainと
貴国Satsumaの交渉をうまく進めたい。

私も同感だ。

実際、再度戦争となっては大変な立場の薩摩。

もう一度、エゲレスが錦江湾に
乗り込んできたら、大変だ・・・

薩摩藩士 重野安繹(Wikipedia)

国家間の話し合いですから、
法律に沿って、しっかり話し合いましょう。

我がGreat Britainとしては、
譲れない点がある。

Namamugiで我が国民を殺害した犯人
引き渡しだ。

これは、法律上も理にかなって
おり、絶対に条項からは外せない。

それは
尤もですが・・・

いや、生麦でエゲレスの国民に
斬りかかったのは、久光様の側近・・・

久光様は、絶対に
「引き渡し」には応じない。

「久光の側近の引き渡し」は絶対に久光は応じないでしょう。

大英帝国と薩摩の間で「絶対に譲れないライン」が顕在化して、決裂寸前に至ります。

交渉決裂か・・・

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