日英の友好 19〜薩摩と大英帝国の交渉〜|薩英戦争

前回は「日英の友好 18〜驚愕する大英帝国〜」の話でした。

左上から時計回りにJohn Neal駐日代理公使、Ernest Satow英外交官、薩摩藩士 岩下方平、薩摩藩士 重野安繹(Wikipedia)

はるかに格下の日本のさらにその一共和国に過ぎない薩摩と戦争して、予想外の大打撃を受けた大英帝国。

薩英戦争(Wikipedia)

1863年7月2日〜3日(日本の暦、以下同)にかけて、薩摩藩と大英帝国の間で死闘が錦江湾で行われました。

薩英戦争(Wikipedia)

鹿児島城下を砲撃し尽くした大英帝国ですが、想定外の大打撃を受けて同年7月4日に撤退します。

その戦後補償の話し合いが、早くも同年9月28日から開始しました。

主導する重野安繹は、つい最近まで島流しにされていた「犯罪者」(連座)です。

薩摩藩士 重野安繹(Wikipedia)

薩摩藩からの能力を買われて、この大事な交渉の場の代表格となり、張り切ります。

薩摩藩のために、
力を尽くそう!

当時は、藩が国家のような存在だった日本。

日の丸(Wikipedia)

現代、日の丸を背負って対外交渉を行う実務官僚、オリンピック選手のような気持ちだったでしょう。

薩摩側の重要人物がもう一人います。

正使として、重野の補佐役となった薩摩藩士 岩下方平。

薩摩藩士 岩下方平(Wikipedia)

西郷隆盛、大久保利通ら若手の巣窟である精忠組の一派でした。

左上から時計回りに西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎(Wikipedia)

そして、西郷・大久保に続いて大山巌、東郷平八郎を輩出した下加治屋町出身です。

城下を焼き尽くされた
補償を得る!

後に明治政府で大阪府大参事、貴族院議員などを務める岩下も張り切ります。

対する、大英帝国側はニール代理公使たちが、出てきます。

若き外交官アーネスト・サトウもまた、交渉の表裏に関わります。

John Neal駐日代理公使(Wikipedia)

大体、Satsumaが
我がGrait Britainの民間人を突然斬ったのが悪い!

我がGrait Britainは、
国民を守ったまで!

生麦事件(Wikipedia)

世界一の強国であり、民主主義発祥の地である大英帝国。

「国民を守るのが当然」という主張をします。

我が国では、
大名行列を乗馬で横切るなどもっての外!

あなた方が、
我が国にいるならば、我が国の慣習に従うべき。

そもそも、薩英戦争のきっかけとなった生麦事件に対する考えからして、そもそも対立が止まりません。

大英帝国は民主主義の国と
聞きます。

あなたの「国民を守る」は分かりますが、
「他国の民」に対する考えは尊重すべきでは?

学者肌の重野は理詰めで追求します。

う〜む。
確かに。

大英帝国 外交官 Ernest Satow(Wikipedia)

しかし、
民間人を日本刀で斬るのは、受け入れ難い。

確かにこの点は、薩摩藩が絶対的に不利です。

確かに、国際法などに照らし合わせると、
「斬りかかる」のは問題だったでしょう。

血気盛んな薩摩藩士ではなく、学者肌で冷静な重野を代表にしたのは、薩摩藩の賢明な点でした。

これが当時の国際情勢をわきまえない武闘派だったら、

国際法など、
我が薩摩には関係ない!

となったでしょう。

当時の国際・世界情勢をしっかり把握していた重野は、内心

生麦のことは、
国際法的に薩摩に非がある・・・

ことをはっきりと理解していました。

しかし、これで折れるつもりは全くありません。

しかし、軍艦を動員して
戦争をふっかけてきた大英帝国も問題でしょう!

これは、国際法では
全く問題ないのですか?

確かに、「全く問題ない」とは
言い難いです。

薩摩も大英帝国も双方が、自説を強行に主張するのみです。

全く平行線で交わる気配すら感じられない交渉の第一日目は、完全な物別れに終わりました。

交渉後、ニール代理公使とアーネスト・サトウが話します。

ふ〜。
Tokugawaとは全然違うな。

同じ日本人で、
こんなに違うとは・・・

私も実際にSatsumaの人間と
対峙すると同じ思いです。

これで、交渉は
妥結するのか?

諸外国にも圧力をかけるように
依頼しています。

うむ。
ここはFranceなどとも協調するのが良いな。

アジアでの交渉で初めての「異常な強硬姿勢」を受け、困惑したニールたちでした。

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