前回は「英国ともっと友好深めよう 4〜薩英戦争と交錯する利害関係〜」の話でした。
1863年に、本当に海外の艦船の一方的砲撃に踏み切った長州藩。
不穏な動きを感じ取っていた英国公使オールコックでした。
「まさか本気でやるとは思わなかった。」のが本音だったでしょう。

「本気で」一線を超えてしまった長州藩に対し、当然のことながら米仏は怒りに震え、反撃してきます。
そもそも国際法上も明確な違反で、「喧嘩を売られた」米仏は艦隊を派遣します。
そして、馬関(下関)の砲台を攻撃します。


大砲の性能が遥かに劣る長州藩の砲台は、ほとんど破壊されます。
この長州藩最大の危機に対し、幕末最大の風雲児 高杉晋作は非常時の軍隊を創設します。
「武士でなく、有志の軍隊」という、それまでの日本には存在しなかった軍隊「奇兵隊」の誕生です。

幕末に、藩全体が発狂したように沸騰していた長州藩。
会津と薩摩に対して京都に侵攻するという「蛤御門の変」を起こし、幕府はついにキレてしまいます。
遂に幕府から長州征討がくだされ、諸藩は「メリットのない」戦いに嫌々従います。
戦意が奮わない中、高杉ら奇兵隊は大軍で、軍備優れた幕軍を追い返します。
この間、実高100万石とも言われ、それなりに豊かな長州藩に対して、グラバーは「なんとか武器を売れないか」考えます。

そして、土佐 坂本龍馬がつくった亀山社中を通して、武器を長州藩に売ることに成功します。
この「武器横流し」が時代を大きく推進します。
これをもとに薩摩と長州は薩長同盟を結び、幕末維新は一気に走り出します。

この前後、長州藩の四ヵ国艦隊砲撃という大事件を英国公使として折衝していたオールコックの代わりにパークスが登場します。
日本に英国公使として新たに赴任したパークスは、この「徳川幕府と長州藩が内戦状態にある」激動の時期に来日しました。
「どちらにつくのが英国にとって有利か」を考えます。
そして、薩摩藩と結びついているグラバーの提案もあり、「どうも徳川幕府は倒されそうだ。その倒幕を後押しし、新政権=薩摩藩側につくのが良さそうだ。」と判断。
英国は、全面的に薩摩側につくことになります。
ただし、本国からは「中立を守れ」という命令がきていたのです。

その最中、英国と長年敵対関係にある、ある国は徳川幕府に歩み寄っていました。