前回は「極めて意義深い「天皇皇后両陛下の硫黄島訪問」〜死闘を超えた「超絶死闘」だった硫黄島の戦い・「先の大戦」ではなく〜」の話でした。
国立公文書館”終戦”展と昭和天皇の詔書

国立公文書館東京本館で開催されている”終戦”展を訪問しました。
この展示では、終戦(敗戦)における詔書などの様々な公文書が展示されています。

皇居の一角にある国立公文書館は、博物館の中では一般的に「少し縁遠い」感じもあります。
国や地方自治体などが職務上作成する「公式の文書」である「公文書」は、社会の根幹でもあります。
一般的な個人・法人が作成する書類・記録等は、「私文書」となります。
歴史を理解するには、公文書も私文書も重要ですが、公文書は「歴史の骨格」をなします。
第二次世界大戦の際の公文書は重要であり、その中でも「昭和天皇に関する資料」は極めて重要です。

東京大空襲など、日本の都市という都市が米国によって空襲され続けた1945年。
誰がどう考えても「大日本帝国敗戦は確実」であった中、政府と軍部では、

もはや
降伏するしかない・・・



何を申すか!
本土決戦だ!
「降伏か、本土決戦か」で揉め続け、方針が定まらない状況が続きました。
終戦(敗戦)前後の大日本帝国:政府と軍部の大混乱


そして、1945年8月6日に広島、同年同月9日に長崎に、原爆投下。
立て続けに原爆が投下された状況において、「降伏受諾」へ一気に動きました。


降伏するには、大日本帝国のトップであった昭和天皇が「降伏受諾」を受け入れる必要がありました。
慌ただしい中、「終戦の詔書」の原案の作成が進められました。
当時、内閣書記官長であり、現代の内閣官房長官であった迫水久常が第一案を作成。


その原案を様々な人物がチェックし、著名な学者であり大東亜省顧問であった安岡正篤も関与しました。


当時、東京では、「終戦の詔書」をめぐって、政府内での最終調整が急速に進められました。
ポツダム宣言を「受諾する意向」を示したとは言え、



また原爆(当時は未確定)が
どこかに投下されるかも・・・
さらなる原爆が投下される危機を感じながら、慌ただしく進められたと思われます。
ここで、「戦局」という事実に対して「必ズシモ好転セズ」など、細かな文言が修正されています。
「究極事態」においても、細かな文言の調整が行われているのは、不思議にも思われます。


とにかく、慌ただしい中作成された「終戦の詔書」は、正式な「清書=浄書」が進められました。
慌ただしすぎる中、浄書を書き直す時間もなかった状況でした。
そして、1945年8月15日、国民に対して昭和天皇から「終戦受諾=終戦詔書」が発せられました。
終戦(敗戦)80年を迎える今年、「当時の状況を直視する姿勢」は重要です。
“終戦”展は、2025年9月15日まで開催です。
「終戦(敗戦)前後の大日本帝国」の理解のために、ぜひ足を運んでみてください。