前回は「対米開戦決定直後「呑気に見えた」統帥部長達〜杉山総長「戦闘開始は次の日曜日頃」・「奇襲」に不安感じた東郷外相・米国と戦争の意味〜」の話でした。
東郷外相「通告は国際信義上絶対に必要」:奇襲一点張りの統帥部

1941年11月下旬、大日本帝国という国家だった日本は、対米戦開戦を決定しました。
永野修身いよいよ、米国と
戦争ですな・・・


そして、日本人ならば誰でも知っている「真珠湾奇襲攻撃」へ踏み切った大日本帝国。
対米戦前は日本は主として中国と戦争を続け、日本側は「支那事変」と呼んでいました。
間違いなく「戦争」でしたが、日中(支)双方が宣戦布告しなかったために「事変」と呼びました。


この日米戦開戦前後の状況を、開戦時と敗戦時外相であった東郷茂徳が克明に綴っています。



殊に布哇(ハワイ)攻撃につきては、
文官大臣であらかじめ知る者がなかったことは、



幾多の証言があるのであるから、
多言は要るまい。
ここで、「真珠湾奇襲攻撃を東郷大臣他文官大臣は知らなかった」ことを記録に残した東郷。



奇襲をやらなければ、緒戦においても
充分の見込みがないことにも解せられて、



戦争の前途を心細く感ずるの
念が生じた。
更に、堂々と戦争を開始すると思ったら「奇襲攻撃一点張り」だったことに懸念を抱きました。



しかし、自分は此やり方は通常の手続きに反して
甚だ不当であること、



開戦の際に無責任なことをして置くと
我が国の名誉と威信とにも関して甚だ不得策であること、



又、野村大使よりも自由行動に出づる前
交渉を打ち切り置くことが必要であり、



其通告は華府(ワシントン)に於いても
行うことが必要であるとの意見上申をも引用し、



通告は国際信義上、絶対に
必要であることを主張した。
東郷大臣は、「米国への通告」を軽視し、戦果ばかり重視していた軍部に強く主張しました。



自分は、統帥部が開戦決定の後に
至って奇襲の必要を唱え、



之を強要せんとするが如き態度を示したのに
甚だしき不満を感じ、



他に先約があったから
之を理由とし退席せんとした。
軍部・統帥部の「外交無視」の姿勢に怒り心頭だった東郷大使は、



もう、勝手に
なされ!
このように言わんばかりに、退席しようとまでしました。
とにかく、世界最強国・米国との戦争において、内部で意思統一がされていなかった状況でした。
「奇襲攻撃開始前に十分の余裕」の解釈と曖昧な通告時刻決定


そして、東郷外相が強い懸念を示す中、第一航空艦隊はハワイ真珠湾目掛け、進撃中でした。



之により、当日は散会する事になったが、
其際、伊藤次長は、余の席に来て、海軍の苦衷を訴え、





若し交渉打ち切りの通告が
どうしても必要ならば、華府(ワシントン)ではなく、



東京に於て、米国大使に
為すようにしたい。



と
申し出た。
写真の通り、帝国海軍きっての穏健派・良識派であった伊藤整一軍令部次長。


伊藤整一は、1945年4月7日、第二艦隊司令長官として戦艦大和に座乗し、戦死します。



自分は、此方法につきては、ある種の
不安を感じたので、



其申し出を拒絶し
そのまま別れた。
ここで、東郷外相は、伊藤次長の「開戦は東京で」をキッパリ拒絶しました。



しかし、以上の経緯によって、海軍が
東京又は華府何れかの地で、



交渉打ち切りの通告を為すことには
同意するものと認めた。



然るに、其次の連絡会議の
劈頭、伊藤次長は、



華府で交渉打ち切りの通告を
為すことに海軍軍令部は、異存ない。



ことを述べ、通告が華府時間
十二月七日午後零時半に為さるべきと申し出た。
ここで、伊藤次長は、統帥部を代表して「華府時間十二月七日午後零時半」の通告を申し出ました。



それは
いいね。



之に一同賛意を表したので、自分は
其時刻は攻撃開始前に十分の余裕があるのか、



と尋ねたところ、
次長は、



其の通り
である。



ことを確言したので、自分も
右申し出に同意し、之を決定したのである。
東郷外相は「攻撃開始時刻を知らされないまま、交渉打ち切り時間に同意」せざるを得ませんでした。



自分は、此論争によって海軍側の要求を
国際法の要求する究極的限界に喰い止めることに成功したと思った。
後世、「真珠湾攻撃後」となったことが有名である「対米交渉打ち切り通告」。


その極めて重大な「交渉打ち切り通告」は、このように曖昧な状況で決定されました。
「十分の余裕」は、人によって解釈が異なります。
それが「一時間前」なのか「二時間前」なのか。
東郷外相は、当時、



その華府時間十二月七日午後零時半は、
具体的に奇襲攻撃のどの程度前なのだ?
このように問いただすべきでした。
実際は、このような会話があったはず、と筆者は考えます。
ところが、



開戦は、次の
日曜日頃ですな。
このように「文官大臣など戦争のことは知る必要なし」との姿勢だった統帥部。
おそらく、東郷外相が、具体的な時間を尋ねても、



十分に
余裕がありますので・・・
このような回答しか得られなかった、と考えます。
それは、真珠湾奇襲攻撃を敢行する帝国海軍側から見れば、



下手に時間を
公開した結果、情報が漏れたら・・・



真珠湾奇襲攻撃は
失敗し、我が空母は大打撃を受けてしまう・・・
このような懸念があったのは、間違いないことでした。
しかしながら、外交のトップであった東郷大臣が「奇襲開始時間を知らなかった」こと。
さらには、「真珠湾奇襲攻撃すら知らされてなかった」事実。
この統帥部と帝国政府の分断こそが、大日本帝国の悲劇の根幹であったともいえました。
とにかく、曖昧模糊としたまま、帝国政府は猛進して突き進んでゆきます。
世界最強国「巨大ボイラー」の米国との開戦へ、と

