前回は「「帝国海軍の内情」を全て把握していた米国〜全てが「異様なまでに順調」だった南雲機動部隊の真珠湾行き・「死中に活」を〜」の話でした。
大元帥として軍部を統帥した昭和天皇:別の組織であった政府と大本営

後世から見れば、「絶対に敗北する」対米戦。
当時の大日本帝国を「死中に活を求める」気持ちで、対米戦に突入することを決定しました。
1941年12月1日開催の御前会議で、正式に「対米戦開始」が決定されました。
ハル・ノートが大日本帝国に交付されたのが、同年11月26日であり、「5日後の最終決定」でした。
そして、「世界最強国家に宣戦布告」という、正に国家の運命を変える事態に至りました。
ところが、指揮系統が明確であった米国や大英帝国と比較して、大日本帝国は深刻な状況にありました。

当時の、戦前の大日本帝国においては、天皇陛下が政府を統括していました。
さらに、同一の天皇陛下が大元帥として、軍部である大本営の頂点に立っていました。


朕は大日本帝国政府の
トップであり・・・



同時に、朕は大日本帝国
大元帥として、帝国陸海軍を統帥する!
長い歴史において、ずっと天皇(陛下)が存在し続けた日本。
天皇の権限は、鎌倉時代頃〜江戸時代末期まで非常に限定されたものとなりました。
その後、明治維新となり、「維新」でありながら「王政復古」の道を選んだ日本。
「徳川将軍がトップで、天皇はお飾り」の時代から、明治以降は「天皇は名実共にトップ」となりました。
そして、大日本帝国において、為された戦争において、天皇は一定以上関与し続けた歴史があります。


「トップ」に関しては、米国と大日本帝国は似た感じであり、「米大統領=天皇」の表現で良いでしょう。
ところが、政府と陸海軍の関係において、米国と大日本帝国では全く異なる状況でした。
当時の大日本帝国では、「政府と軍部・大本営は別」だったのでした。
帝国政府と大本営が対等の「不思議すぎる政治機構」:政府と軍のズレ


この「政府と軍部が別」という不思議な政治機構は、大日本帝国に特有のものでした。
そして、この「不思議すぎる政治機構」で、大日本帝国は国家を運営していました。



私が大日本帝国首相
東條英機である!
この頃の、「大日本帝国政府の顔」は東條首相兼陸相でしたが、



私の首相としての
権限は、政府に限定される・・・



首相といえど、帝国大本営には
直接司令を下すことが出来ん・・・
つまり、首相は「政府の統括者」であり、大本営は「参謀総長と軍令部総長が統括者」でした。
そして、首相・参謀総長・軍令部総長は、「天皇を輔弼」する立場でした。
この大日本帝国の統治機構を考えると、「首相には、大した権限がない」とも言えます。
第二次世界大戦を繰り広げていた、世界各国にとっては「軍への司令権」は最重要でした。
選りに選って、その「軍への司令権」がほとんど皆無であった東條首相。



杉山さん、
陸軍の戦争、よろしく頼みますよ・・・



ああ、東條首相・・・
陸軍は任せてくれ・・・



永野さん、
海軍の戦争、よろしく頼みますよ・・・



ああ、ワシは天才だから、
海軍は任せてくれ・・・
このような感じで、東條首相は陸海軍に関して、深く関与することは機構上、出来ませんでした。
本来ならば「東條首相が陸海軍に司令を下す」はずが、全くそうではありませんでした。
少なくとも、「陸軍の巨頭」であった東條首相は、陸軍では多数の子分もおり、



まあ、陸軍への司令権限は
杉山さんが持っているが・・・



陸軍内部にワシの子分も
いるから、ある程度は統制が効くが・・・
ある程度、「東條の意向」は陸軍の戦略・戦術に反映されそうですが、限定されました。
出身の陸軍ですら、こんな感じですから、海軍に至っては、



海軍の情報が
全然入ってこない・・・
どの国家でも「陸海軍は険悪」ですが、「険悪」を超えて「憎しみあっていた」ような帝国陸海軍。



まあ、海軍のことは、
東條首相は関与せんで良い・・・



・・・・・



外相は私であり、
外交トップは私ですが・・・
このように、政府と陸海軍の間に大きな溝・ズレがあったのが大日本帝国でした。
名前 | 役職 | 生年 |
東條 英機 | 首相・陸相 | 1884 |
東郷 茂徳 | 外相 | 1882 |
杉山 元 | 参謀総長 | 1880 |
永野 修身 | 軍令部総長 | 1880 |
そして、東條首相、東郷外相、杉山参謀総長、永野軍令部総長の中で、東條は最年少でした。
首相が若々しいのは、ある意味で良いことですが、年功序列が重んじられ続ける日本社会。



杉山さんと永野さんが、
陸海軍を指揮して、ワシの意向は・・・
肝心の陸海軍の作戦指揮において、東條首相は「蚊帳の外」でした。
次回は上記リンクです。