前回は「甘かった帝国政府と大本営の認識〜「挑戦状」に対する曖昧な姿勢・第二次世界大戦を引き起こした日本・「真珠湾」の真実は永久に闇〜」の話でした。
精緻で貴重な第一級資料「大東亜戦争の実相」:瀬島龍三と服部卓四郎

日本人ならば、誰でも知っている「真珠湾奇襲攻撃」の事実。
その反面、当時の外交状況に関して、一定程度の知識を持っている日本人は極めて少数です。
そもそも、第二次世界大戦に対しては「後ろ向き」であり、「蓋をする」傾向がある現在の日本人。
当時の歴史を直視することを「敢えて避けている」かのように感じます。
その一方で、少なくとも「ある程度は当時の軍部・政府の状況」は理解しておくべきと考えます。

1911年生まれ、陸軍の超エリートであった瀬島龍三が、戦後に書いた「大東亜戦争の実相」。
開戦当時、陸軍参謀本部参謀であり、「陸軍の中枢中の中枢」にいた瀬島。
陸軍大学校を首席卒業し、「陸軍のホープ」だった瀬島龍三は、全てをする人物の一人でした。

同じく、陸軍参謀本部中枢にいた服部卓四郎が描いた「大東亜戦争全史」という大作があります。
瀬島龍三の直属の上司であり、「盟友だった」とも言える服部卓四郎。
この「大東亜戦争全史」もまた、当時の記録が異様なほど詳細に記載されている貴重な書籍です。
瀬島が書いた「大東亜戦争の実相」は、「大東亜戦争全史」ほど全て詳細に記載された本ではありません。
その一方で、極めて重要な事項や事件に関しては、瀬島の記憶と文献を基に詳細に綴られています。
戦後、伊藤忠商事において「持ち前の異能」を発揮し、伊藤忠商事会長となった瀬島龍三。
瀬島龍三に関しては、様々な声があり、それらの声の「一部は真実」と考えます。
その一方、「大東亜戦争の実相」は整合性が取れた極めて精緻、貴重な文献であると考えます。
宣戦布告と外交打切通告の巨大な差:事前「外交打切通告」への不満

「真珠湾」直前の模様を、「大東亜戦争の実相」は詳細に物語っています。
場面は、「真珠湾」4日前の1941年12月4日のこと、
大東亜戦争の実相12月4日の大本営政府連絡会議において、
東郷外相は俄然、対米外交打切通告を・・・



事前に行うことを
提議しました・・・
東郷外相が、「宣戦布告」の一歩手前の「対米外交打切通告」を「事前に行う」ことを提議。



それは、「ハル・ノート」に関する
報告電報の直後・・・



野村大使からも進言が
あったことでありました・・・


ハル国務長官に「翻弄され続けた」という言葉がピッタリである野村大使。
野村大使は、日米戦前の「事前の外交打切通告」をきちんと進言していました。



陸海軍統帥部には不満がありましたが、
事前に通告を行うことに決し・・・



通告文は外相に一任し、
打電及び先方に手交する日時は・・・



外相と統帥部とが協議して
決めることになりました・・・
ここで、やや「不思議な印象」であるのは、「事前の外交打切通告」を統帥部が不満に思ったことです。
「宣戦布告とは何か?」に対しては、様々な解釈があり得るかもしれません。
その一方で、「外交打切」は明らかに「宣戦布告以前」の外交文書です。
どう考えても、「外交打切=宣戦布告」とはなり得ません。
仮に、「外交打切=宣戦布告」であれば、「戦争が頻発する」ことになってしまいます。
いかに「戦争は外交の延長の一つ」という解釈であっても、「外交打切通告」すら不満に感じた統帥部。
この「統帥部」とは誰なのか?を、「大東亜戦争の実相」は明らかにしていません。
明らかではありませんが、文章の流れや当時の言動を考えると、永野軍令部総長しかいません。
おそらく、



「外交打切通告」は
事前に必要なのか?
当時、真珠湾奇襲攻撃は「乾坤一擲の大博打」であることを、誰よりも理解していた永野総長。
確かに永野は歴戦の大ベテランであり、だからこそ、危険極まりない「真珠湾」を危惧していました。



山本の「真珠湾」は
大丈夫だろうか・・・



山本ならば、米太平洋艦隊に
大打撃を与えるだろうが・・・



こちらも空母二、三隻、
沈められるのでは・・・
おそらく、このように「帝国海軍の大打撃」を予想し、心中穏やかではなかった永野。
この気持ちが、「事前外交打切通告への不満」に現れたと思われます。
「真珠湾」が、大日本帝国が米国に「追い詰められた結果」であっても、直前にモヤモヤしていました。
この「事前外交打切通告」すら、4日前にようやく決まった帝国政府・大本営。


この中、第一航空艦隊は、ひっそりと真珠湾に近づきつつありました。
