前回は「宣戦布告と外交打切通告の巨大な差〜事前「外交打切通告」への不満・精緻で貴重な第一級資料「大東亜戦争の実相」・瀬島龍三と服部卓四郎〜」の話でした。
「真珠湾」4日前の超直前に決定した「対米外交打切の事前通告」

山本五十六第一航空艦隊に
命ずる!



11月26日、真珠湾向けて
出撃せよ!



承知
致しました。
1941年11月20日、山本五十六連合艦隊司令長官は、南雲長官に「11月26日の出撃命令」を下していました。



日米交渉妥結の際には、
即座に打電するので、引っ返してこい!
山本長官は「出撃後、日米交渉妥結なら引っ返す」ことを厳命しました。



そんなことは
出来ません!
出撃したら、事実上「戦闘状態」と同等であり、この「途中で引っ返す」のは、いかにも無理でした。



無理、というならば、
今すぐ辞表を出せ!



・・・・・
かつて、海軍次官の頃までは「知米派・対米避戦派」の急先鋒だった山本長官。
1941年11月末頃、山本長官の真意は不明ですが、「日米交渉妥結の可能性は0%」と考えていたでしょう。


陸軍の超エリートであった瀬島龍三が、戦後に書いた「大東亜戦争の実相」。
「大東亜戦争の実相」には、この頃の事情が克明に記載されています。



12月4日の大本営政府連絡会議において、
東郷外相は俄然、対米外交打切通告を・・・



事前に行うことを
提議しました。
そして、「真珠湾」の4日前という、超直前に「対米外交打切の事前通告」が決定しました。
何事も甘かった帝国政府:あらゆる可能性を検討する米英との違い


1941年12月4日、という「真珠湾4日前」では、もはや「日米戦争は開始したも同然」の状況でした。
そのなか、ようやく「対米外交打切の事前通告」を決定した帝国政府。
どうにも悠長であり、のんびりした雰囲気があったように感じます。


現代も、日米の国力差は大きいですが、当時の日米の国力差は、現代よりも遥かに大きいものでした。
資源においては、「比較の対象にならない」状況であり、圧倒的存在だった米国。
1941年(昭和16年)当時、日米の資源の差が最も小さい石炭において、米国は「日本の9倍」でした。
さらに、石油に至っては、米国は「日本の528倍」でした。
なんらかの力を比較する場合、意味があるのは、せいぜい20倍程度であると考えます。
「日本の528倍」では、事実上「「日本の無限大倍」と考えて良い状況だった日米の国力差。
帝国政府・大本営は、緻密に対米戦争を準備していたはずでした。
それにも関わらず、「対米外交打切の事前通告」を、やっと「真珠湾」4日前に決定した帝国政府。
本来ならば、機動部隊へ出撃命令を下した1941年11月20日以前に、想定しておくべきでした。


ハル・ノートが来るまでは、「一縷の希望をかけていた」帝国政府。
その一方で、米国や英国ならば、「あらゆる可能性を検討しておく」姿勢です。
これが、仮に逆の立場であれば、どうであったか。
米国は「対日外交打切の事前通告」のタイミング・手法を、事前に検討して、決定していたでしょう。
何事も遅く、何事も甘かったのが当時の帝国政府の姿勢でした。
そして、この点は、現代日本政府もまた、似ている面があると考えます。

