前回は「外相「いつ開戦なのか?」の「不思議過ぎる」国家体制〜驚愕した東郷外相・世界中が怪訝に感じた東條内閣・張り詰めていた世界と日本〜」の話でした。
第二次世界大戦を引き起こした日本:「真珠湾」の真実は永遠に闇の中

1941年11月末は、後世の視点から見れば「第二次世界大戦中」となります。
その一方で、1941年11月末までは「欧州大戦(独ソ戦)+支那事変(日中戦争)」という構図でした。
米国は表立っては参戦せず、大英帝国・中国などの後方支援に回っていました。
そして、1941年12月8日(日本時間)の「真珠湾」によって、日米戦争が勃発します。
この「真珠湾」によって、ほぼ同時に日英・独米戦争が勃発し、世界大戦へと突入します。
「真珠湾」に関しては、米国が大日本帝国を挑発した形跡が濃厚であり、
米国作家SPearl Harborは
Roosevelt大統領の謀略だ!
このように「真珠湾はルーズベルト大統領の謀略」とする説が、米国内からもずっと、何度も出ています。
この真偽は、定かではありません。
最終的には、米国政府が握っている文書が公開されなければ、真実は明らかになりません。
ただし、米国が「真珠湾前後」の機密文書を公開することは、永遠になさそうです。
この点では、「真珠湾の正しい歴史」は、永遠に「闇の中」となります。
筆者もまた、「米国によって大日本帝国政府は追い詰められた」とする見解です。
ただし、世界史の「表の歴史」としては、我が国が「第二次世界大戦を引き起こした」ことになります。
このことを、日本人は、きちんと理解しておく必要があると考えます。
大甘だった帝国政府と大本営の認識:「挑戦状」に対する曖昧な姿勢


どう考えても、1941年6月頃には、「日本との戦争を決意」して準備を進めていた米国。
1941年11月26日には、事実上の「最後通牒=宣戦布告」であるハル・ノートを受けました。



これは、
もはや・・・



対米戦を開始するしか
道はない・・・
1.日本軍の中国全土及び仏領インドシナからの撤兵
2.日独伊三国同盟の破棄
3.大日本帝国が満州事変以前の状態への復帰
ハル・ノートは「大日本帝国が一歩も引けない項目」が、ずらりと並べられていました。


瀬島龍三の回想録でもある「大東亜戦争の実相」には、様々な当時の動向が記載されています。
1911年生まれ、陸軍の超エリートであった瀬島龍三は、開戦の年に30歳を迎えました。
当時、参謀本部参謀だった瀬島は、「大日本帝国の内側」を全て知る立場でした。
「大東亜戦争の実相」において、瀬島は、自身の記憶と多数の文献をもとに、当時を描写しています。



開戦日を
知らせろ・・・



之を知らなければ
外交は出来ない・・・



それでは
言う・・・



八日だ・・・



未だ余裕があるから、
戦に勝つのに都合が良い様に・・・



外交をやって
呉れ・・・
1941年11月29日の連絡会議において、この東郷外相と永野軍令部長の間のやりとりがありました。
「真珠湾10日前」に、ようやく外相が「開戦予定日を知る」異様な事態でした。



これは統帥部なかんずく海軍統帥部が
開戦企図を秘匿するために・・・



依然交渉を継続しているという
ゼスチャーを取るよう要求し・・・



東郷外相が開戦予定日までに
まだかなりの日数があることを初めて知って・・・



いささか当惑したであろうことを
物語っています・・・
「大東亜戦争の実相」では、東郷外相が「まだかなりの日数があること」を初めて知ったと記載あります。
この「かなりの日数」に関しては、筆者は疑念を持ちます。
外交文書を起案して、電文して、相手国に通告するのは、確かに一日で済むかもしれません。
その一方で、「戦争開戦」ともなると、多数の検討・調整が必要であるはずです。
この点で、「10日前」である11月29日が「かなりの日数」かどうか。
筆者は、東郷が当惑したのは、逆の「もはや真近」であることのようにも感じます。



最も東郷外相は既に
11月28日に野村大使に対し、



「ハル・ノート」に対する出先の
応酬振りについて・・・



交渉決裂の印象を与うる
ことを避ける・・・



趣旨の訓令を打電済みで
ありました・・・
ここで、「大東亜戦争の実相」では、東郷外相が「既に手を打っていた」ように記載しています。
誰が見ても「挑戦状」のようなハル・ノートでしたが、「交渉決裂とは見せない」のは当然でした。
「交渉決裂=開戦」となる状況だった、この当時、東郷外相の野村大使への指令は当然のことでした。
いずれにしても、この「曖昧外交路線」は、当時の帝国政府・大本営の甘さを物語っています。

