前回は「中立条規を蹂躙した1941年米政府〜莫大な大英帝国への後方支援・「海洋の自由」の解釈を変更した米国・大英帝国の「軍需工場」米国〜」の話でした。
揺れ続けた世界各国「自衛権の範囲」の解釈:大戦争と法律解釈論

1941年11月26日、大日本帝国に届いたハル・ノート。
1.日本軍の中国全土及び仏領インドシナからの撤兵
2.日独伊三国同盟の破棄
3.大日本帝国が満州事変以前の状態への復帰
当時の大日本帝国政府としては、「絶対に呑めない」条件ばかりでした。
この「ハル・ノートの意図」に対しては、諸説あり、
Hull外交や協議というのは、
まずは自国の主張を強く主張して、



その上で、話し合いで、
折り合ってゆくのが当たり前だろう・・・



だが、Japanは、Chinaの問題で
全く折れない・・・



だから、USとしては
強硬な文書を出さざるを得ないのだ!
当時のハル長官が、このように考えた形跡もありますが、事実上「最後通告」でした。


ハル・ノート受領時、そして、敗戦時も外相だった東郷茂徳の手記があります。



殊に米国自身、第一次世界大戦までは
海洋の自由を主張して、



英の横暴を抑圧せんとしたが、
今次戦争に於いて、自国の海空軍が強大となるに伴い、



海洋の自由を
顧みることがなかった。
この頃の、米政府は、自国の都合に合わせて、「中立」や「海洋の自由」への姿勢を変更していました。



この如く、国際法も、一又は数個の大国の
恣意により、変更を見ることがあるので、



日本は自衛権の範囲については、
少なくとも米国を相手とする限り、



その解釈を参酌することが
当然であった。



尚、米国政府の解釈では、何が自衛権であるか、とかは
自国のみが決定し得る、と言うのであったから、



この際の日本の決心が自衛の範囲を
逸脱していると論ずるわけにはいかない。



凡そ一国の適用ある法則は、他国にも適用
されなくてはならない。



この如く、法律論は別とするも、当時、日本の当局者が
このままでは大国の自滅の外ない、



という考慮を
持っていたことは事実である。
横暴極まりない米政府に対して、東郷外相たちは「外交論理」で反撃しました。
ところが、それは「無駄な抵抗」でした。
「交渉決裂の印象を与えぬ様」懸命だった日本外交:国家の主義方針


この東郷外相の「法律論」は正論であると、筆者は考えます。
その一方で、当時欧州では大戦争が起きており、支那事変が続いていた世界情勢。
米政府から見れば、



大戦争が惹起している中、
法律論だけでは、仕方ないだろう。



外交と言うのは、とにかく
「各国同士が自国の利益」を話し合うのだ。
おそらく、ハル長官はじめ、このように考えていたでしょう。



華府(ワシントン)にある両大使は、
「ハル」公文受領後、「ローズヴェルト」大統領とも会見し、



今回の米国提案は、日本政府を
痛く失望せしむべし、と述べて其再考を求めたが、



大統領は、両国の主義方針が
一致せざれば、一時的解決は結局無効である、と言って、



再考を肯じなかった、
ということであった。





これは、あまりに日本に対して
痛烈すぎるものです。



再考して
ください。
帝国海軍出身の野村吉三郎は、一応外相経験もありますが、外交は素人同然でした。



両国の主義方針が一致せざれば、
一時的解決は結局無効である!
「再考を求める」に対する、ルーズベルト大統領の回答は、ある意味で至極当然でした。



しかし、先方に対して更に其の反省を
促す為に二十八日、両大使に対し、



日本が難機を忍んで協調的態度を
示したるに拘らず、



米側がこれに対応せず、
交渉を至難ならしめたことを説明する様に訓令した。
真珠湾まで「あと十日」の時点で、東郷外相は「説明すること」を訓令し続けました。



ただし、その後、先方からは、東條首相の
演説が過激であるとか、



又は日本の南方送兵の模様があるとか、
言って苦情を持ち込んできたが、



従来の交渉案件について
再考する状況は更になかった。



かくて交渉継続は不可能の状況になったが、
交渉は御前会議で正式に決定するまでは、



外務省側で打ち切ることは出来ないので、
出先に対しても、



交渉決裂の印象を与えぬ様にと
注意を与えた。
どこからみても「交渉決裂」した日米外交。
その中、日本は「交渉決裂の印象を与えぬ様に」一生懸命でした。



すでに外交のフェーズは
終了しているのだ。
そして、ハル長官は、冷ややかに、極めて冷静に日本の出方を見ていたのでしょう。

