前回は「「対米開戦止むなし」方針決定へ〜日米開戦決定前の「重臣会議」の行方・全くなかった重臣「ハル・ノート受諾すべし」の声・日米戦争前提へ〜」の話でした。
「真珠湾」以前の綿密な日米交渉の事実:閣議より上位だった連絡会議

大日本帝国による真珠湾奇襲攻撃によって開始した日米戦争。
多くの日本人は、第二次世界大戦・大東亜戦争の歴史を直視せず、「蓋をする」ような姿勢です。
・戦国時代:1550年〜1615年頃(一部、江戸時代)
・幕末維新:1840年〜1870年頃
・第二次世界大戦・大東亜戦争:1938年〜1945年頃
「歴史好き」や「歴史ファン」の人は、日本人にも大勢おり、概ね上の三つの時期がファンが多いです。
そして、これらの三つの時代の中では、戦国時代が最もファンが多いように感じます。
第二次世界大戦・大東亜戦争に関しては、「歴史ファン」ですら「多くを知らない」人が多いです。
大日本帝国が「真珠湾奇襲攻撃」をしたのは事実ですが、「奇襲攻撃」を詳しく知る人は少ないです。
当然のことですが、大日本帝国は「外交交渉せずに突然奇襲攻撃した」のではありませんでした。
「真珠湾」の前、特に1941年初頭から、米国とは綿密に外交交渉を積み重ねていた大日本帝国。

そのころの事を、開戦時・敗戦時共に外相であった、東郷茂徳は、詳細に記録に残しています。
東郷茂徳されば、苟くも国家の重臣たる人々には
詳細に説明する必要がある、



何人も米国の提案を受諾すべしと云うが如き
発言はなかった。
そして、すでに、当時の最高意思決定機関であった「連絡会議」において、対米戦を決した帝国政府。
| 役職 | 名前 |
| 内閣総理大臣・陸軍大臣 | 東條英機 |
| 海軍大臣 | 嶋田繁太郎 |
| 外務大臣 | 東郷茂徳 |
| 参謀総長 | 杉山元 |
| 軍令部総長 | 永野修身 |
連絡会議は、総理・外相・陸相・海相・参謀総長・軍令部総長の六名から構成されていました。
この時は、東條英機が、総理と陸相を兼任していたため、上の五名が構成員だった連絡会議。
当時、連絡会議は、内閣の閣議よりも上位に置かれていました。
満洲事変(1931年)→支那事変(1937年)→大東亜戦争・第二次世界大戦(1941年)
既に支那事変の真っ只中であり、「戦時中」であった大日本帝国において、新たな戦争が決定しました。
連絡会議で決定し、国家の方針として「対米戦」が事実上確定していた当時。
「重臣への説明」は、やや今更感がありましたが、とにかく丁寧な説明をしました。
いかにも日本的「一応説明」重臣会議:ぶっきら棒に答えた東條総理の真意


1941年当時、重臣たちは、上の内閣総理大臣経験者を中核としていました。
戦前の内閣総理大臣は、陸海軍軍人も多数いましたが、廣田弘毅、平沼騏一郎ら文官も数名いました。
落ち着いた雰囲気の「文官出身総理経験者」すら、対米戦に反対しない状況でした。



まあ、これ(ハル・ノート)が
来てしまってはな・・・
それほど、激烈な「最後通牒」としか取りようがなかった、のがハル・ノートでした。



しかし、これら問題に対する質疑は盛んであったので
賜餐が定刻よりも相当遅れたような訳であった。



午後、御前に参集し、陛下より順次に
各重臣の意見を求められた。



其の際、
近衛公は、





日米交渉については、
政府の努力を多とするものであり、



最近の米国提案から見ても、交渉が絶望であることは
明らかであるが、この際、陰忍自重して、



暫く模様を見ることは
出来ないものか、と思う。



と述べたので、
総理は、



其の点は、繰り返し繰り返し
頭痛がする位研究を重ねたが、



戦う以外に途なし、との結論に
達したのである。



と云ったので、
それ以上の議論にはならなかった。
つい最近の1941年10月16日に、内閣を投げ出してしまった近衛元総理。
近衛総理は、「とにかく自重」論を述べましたが、東條首相に一蹴されてしまいました。
ここで、東條首相が「頭痛がする位」と云っているのは、少し不思議な感じもします。



ここでは、二、三の人は、はっきりと
戦うの外途なきことを述べたが、



二、三の人は、戦争の見透しにつき、
心許なき事を述べたが、



これに対しては、東條首相から
一々説明を加えた。



中には、随分ぶっきら棒の説明も
あったように記憶するが、



とにかく、激しい議論とは
ならなかった。
まだ、総理大臣となって「一月あまり」だった東條英機首相。
重臣たちから、いろいろと「戦争の見透し」に対して質問され、



その点は、
こういう事です!
この頃、「かなり焦燥していた」という説が有力な東條首相は、「ぶっきら棒に答える」面もありました。
この「ぶっきら棒」は、東條首相の立場から考えると、やむ得ない点もあります。



既に、「開戦止むなし」と
決まったならば、勝つのみ!



それを、「見透しがどうの」など
言って、何になる?
当時、帝国陸軍の陸軍トップは参謀総長であり、軍の統帥において、陸相は「やや脇役的存在」でした。
それでも、総理兼陸相として、「勝つために超一途邁進」していた東條英機。
重臣たちの「見透し議論」は、煩わしいだけ、だったでしょう。
この「重臣たちとの会議」は、何かを決定する「西洋的会議」ではありませんでした。
「重臣たちにも一応説明する」という、いかにも「日本的会議」でした。
そして、いよいよ、運命の12月1日の御前会議に向かってゆきます。

