前回は「ガタガタだった対米戦開始時の外務省〜初入閣の官僚東郷茂徳・日米の政府と軍部大幹部が奮った日米戦前夜・戦争への秒読み〜」の話でした。
近衛政権を振り回し続けた松岡洋右:独ソ戦勃発に揺れた帝国政府

今回は、少し時計の針を戻して、今回は1941年6月頃の話です。
1941年、「対米戦前夜」の大日本帝国政府と大本営の方針は、曖昧さを続けていました。
第二次近衛政権を樹立した近衛首相でしたが、この頃は主導権を握れない状況でした。
近衛文麿私は内閣総理大臣だが、
全く権限がない・・・
当時は、帝国政府と大本営が併立して、昭和天皇を輔弼(補佐)する政権機構だった大日本帝国。
本来であれば、「国家の指導者」となるべきであった近衛首相。
才覚があり、相応の政治力を持っていた近衛首相でしたが、戦時下においては弱い首相でした。



外交のことは
この松岡にお任せあれ!
第二次近衛政権では、松岡洋右外相が「事実上のトップ」となったような状況でした。





この松岡は
ドイツを重視すべきと考える!



三国同盟を軸に、
我が大東亜共栄圏を確立するのだ!
日独伊三国同盟推進派であり、ドイツを極めて重視していた松岡外相。



私がソ連と
日ソ中立条約を締結しました!
そして、1941年4月13日には、ほとんど独断に近い状況で、日ソ中立条約を締結。



私は対米協調
なのだが・・・
「対米協調路線」であった近衛首相とは「正反対の方向」を向いていたのが松岡外相でした。
| 地域 | 覇者 |
| 西欧 | ドイツ |
| 東亜 | 大日本帝国 |
| 米州 | 米国 |
| ロシア | ソ連 |
「松岡構想」では、世界を四大ブロックに分け、それぞれの覇者が設定されていました。
そして、欧州ブロック覇者のドイツ、ロシアブロック覇者のソ連と同盟を結び、



これで我が大日本帝国は
万全だ!
世界四大ブロックのうち、「3/4で同盟体制」を作り出しました。
そして、1941年6月22日の独ソ戦が勃発してしまいました。



ドイツが本当に
ソ連に侵攻した・・・
「ドイツとソ連の間」にいたはずの大日本帝国は、大日本帝国は「困った立場」となりました。
米国敵視と対米協調の狭間:慎重姿勢堅持したルーズベルト大統領


近衛首相が「対米協調派」であることは、米国は把握していたでしょう。



Japanは一体
何を考えているのか・・・



我がUnited Statesと
仲良くしたいのか?



それとも我がUnited Statesと
敵対したいのか?



どっちなのか、
サッパリ分からん・・・
1941年6月頃、ルーズベルト米大統領はすでに「日米戦」を決心していたと思われます。
「民意」や「民主主義」を最重視する姿勢を、ずっと堅持したルーズベルト大統領。



Japanと戦争するにしても、
状況はハッキリ把握したい!
状況によって、慎重に判断する姿勢を戦前から亡くなる寸前まで堅持したルーズベルト大統領。
ここで、どう考えても「反米主義」であった松岡外相は「邪魔」でした。



JapanとUnited Statesの
交渉に適格ではない人物がいる・・・
そして、米国は「名指し」は避けたものの「誰が見ても松岡と分かる」表現で迫ってきました。



まずは米国から敵視されている
松岡さんには消えてもらう!



第二次近衛内閣は
総辞職します!
1941年7月16日に、近衛内閣総辞職によって、松岡外務大臣はクビとなりました。



日本の「外交の顔」の
私をクビ?
確かに、1940年から1941年にかけて、世界を縦横無尽に駆け回っていた松岡外相。



「世界の外交の中心」である
この松岡を消すのか?!
おそらく、松岡外相自身は「世界の外交の中心は私」と考えていたでしょう。



すぐに第三次近衛内閣
発足です!



豊田貞次郎さん、
外務大臣をお任せします!





外交は、この豊田に
お任せください!
そして、帝国海軍軍人であった豊田貞次郎を外務大臣に任命した近衛首相。



我が海軍が「対米協調」であることを
米国は知っているはず・・・
「対米強行」の帝国陸軍ではなく、「対米協調」の色が強かった帝国海軍を選んだ理由がありました。



Matsuokaに代わって
Toyota?



で、結局Japanは
どういう方向なのだ?
ここで、近衛首相は「トップ会談」で決着つけようとしました。



ルーズベルト大統領、
サシで話しませんか?
ところが、ルーズベルト大統領側からすれば、



基本方針すら
合意できてないのに・・・



直接トップが会っても
仕方なかろう・・・
これは「本音」であると同時に、すでに「日米戦」を決めていたルーズベルト大統領。



困った、
どうにもならん・・・
近衛首相は困り果ててしまいました。



・・・・・
そして、豊田新外相は、大したことも出来ずに、時間が経過してゆきました。
そして、この後は、東條内閣東郷茂徳外相となります。
「外交の顔」がコロコロ変わり、一貫性が全く見受けられない「謎の政府」が世界に一つ存在しました。
それが、当時の大日本帝国政府でした。

