前回は「「まずはJapan、そしてHitler」の米方針〜「公約は絶対」の米社会・「本当によくやった」大日本帝国の将兵と国民・絶望的な対米戦〜」の話でした。
日米の政府と軍部大幹部が奮った日米戦前夜:戦争への秒読み

HullJapanの皆さん!
私の回答はこれです!
1941年11月26日に、ハル米国務長官から大日本帝国に出されたハル・ノート。
米政府公式文書ではなく「国務長官の私見」でしたが、「絶対呑めない」条件ばかりでした。
1.日本軍の中国全土及び仏領インドシナからの撤兵
2.日独伊三国同盟の破棄
3.大日本帝国が満州事変以前の状態への復帰





真珠湾向けて、
出撃せよ!
そして、ちょうど同日、山本長官は第一航空艦隊に真珠湾への出撃を命じました。



ただし、日米交渉妥結の
際には、引っ返して来い!
このように日米交渉妥結に「一縷の望み」を賭けていた、と言われる山本長官。
当時は、柱島にいたと思われる山本長官は、ハル・ノートのことは知らなかったでしょう。


そして、正規空母6隻という「空前の大機動部隊」が真珠湾に向かいました。





我が陸軍もまた、
南方へ大作戦だ!
そして、陸軍もまた、南方への大作戦を企図し、大部隊を動かしていました。



そろそろ本格的に
戦争だな・・・
「とっくの昔」に対日戦を決定していたルーズベルト大統領も、奮ったでしょう。
ガタガタだった対米戦開始時の外務省:初入閣の官僚・東郷茂徳


もはや「戦争は避けられない」中、日米の政府と軍部大幹部が緊張感に溢れていた中、



ハル・ノートのような文書が
米国から出てくるとは・・・



なんとか、米国とは
仲良くしたいのだが・・・



私はドイツ派だが、
米国との戦争は避けたい・・・
外交を取り仕切っていた東郷外務大臣、野村+来栖大使は、それほどの緊張感を持っていませんでした。
これは、非常に謎であったことでした。


日米交渉の途中で、米国の要請で更迭された松岡洋右 元外相。
ドイツベッタリだった松岡外相は、米国から忌避された結果、



この松岡が、
米国の要請でクビ?





第二次近衛内閣は
総辞職します!
1941年7月16日に、近衛内閣総辞職によって、松岡外務大臣はクビとなりました。



すぐに第三次近衛内閣
発足です!
事実上「松岡を辞めさせるため」だけのために、内閣総辞職した近衛首相。
この日から5ヶ月経過しないうちに、真珠湾奇襲攻撃となりました。
この点を考えれば、「外交トップ」だった松岡外相を辞めさせるべきでなかなったかもしれません。



米国から敵視され続けている
松岡外相を消した!



これで、米国と
仲良く、交渉出来る!
こう考えた近衛首相でしたが、どう考えてもルーズベルト大統領は、



もうJapanとの
戦争は決定!
すでに「対日戦を決心していた」としか思えないのが、歴史の真実です。



やはり、私には
無理なので、本当に総辞職します!
挙げ句の果てに、1941年10月18日には、「本当に総辞職」した近衛首相。



私が新たな
総理大臣だ!
そして、新たに就任したのが「陸軍のドン」であった東條陸相でした。
昭和天皇は、東條に「日米交渉継続」を命じ、忠実であった東條は本気で日米交渉継続しました。
その結果が、1ヶ月あまり後のハル・ノートでした。
一連の流れを見ると、現代の日本と同様「トップがコロコロ変わる」のは最悪であることが明らかです。
米国に翻弄され続けた結果、トップがコロコロ変わり、



初入閣の
東郷茂徳です!
この超非常時において、初めて入閣した東郷外務大臣。
外務省出身であり、駐独大使の経験や、米国・ソ連での経験もあった東郷大臣はベテランでした。
ところが、どこからどう見ても「官僚」であった東郷茂徳は、「政治家」松岡洋右とは大違いでした。
この超非常時に、「役所仕事」に慣れていた官僚を「初入閣」で外務大臣とした帝国政府。
政治家と官僚は、日本においては「類似している」と思われる傾向がありますが、全然違います。



日米交渉、
何とかならないか・・・
役人的発想だった東郷大臣の元、当時の外務省は弛緩し切った状況でした。
この「超非常時に官僚任せ」としたことが、日米戦争の運命を真っ暗にしました。

